
ゾラ・アーカス・ダントフ その2
Zora Arkus Duntov -part 2-
from "the real Corvette-An Illustrated History of Chevrolet's Sports Car "
by Ray Miller
published by The Evergreen Press
この文章は上の本にあるゾラ・アーカス・ダントフの経歴についての抄訳です。ダントフの経歴を手際良く短くまとめた文章だと思ったので訳しました。興味を覚えた方はどうぞ原書をamazon.comなどでお求めになって是非続きをお読みください。
ゾラの功績
しばしば「ミスター・コルベット」と称されるゾラ・アーカス・ダントフ(Zora Arkus-Duntov)は並外れた人物であり、自動車の世界全般の至る所で伝説となった人物である。ベルギーでロシア人を両親として生まれ、ソビエト連邦とドイツで教育を受けたアーカス・ダントフはかつてデトロイトで働いたもっとも素晴らしいエンジニアのひとりである。しかしながら、ジェネラルモータースでの彼のキャリアは単に彼の能力といった言葉だけでは説明することが出来ない。物事のタイミング、彼の大胆さ、そして彼の努力といった要素も重要な鍵となったのである。
「ミスター・コルベット」を知るためにはまず我々は最初にゾラ・アーカス・ダントフのことを知らなければならない。彼が生まれた時、ゾラの父親はベルギーの工科大学の学生だった。後に戦争と革命とで孤児となった数千人の面倒を見た母親はまだ医学生だった。ゾラは帝政ロシアの首都ペトログラードで育ちやがてペトログラード電気工科大学に通うことになった。アメリカ製品と彼との最初の出会いはスミス&ウエッソン(Smith & Wesson)のリボルバー拳銃だった(これにはたちの悪い者たちが彼のパンの配給を盗もうとするのをあきらめさせる効果があった)。
1934年に機械工学の学位を取得した後、ダントフはドイツ、ベルギー、フランスで働いた。彼は工作機械やスーパーチャージャー、ディーゼルエンジン、そして第二次世界大戦の頃には手榴弾まで設計した。政治的に中立的立場でいることに耐えられな
かったゾラはフランス空軍に志願した。フランスが降伏した後、彼はスペイン、ポルトガルそしてアメリカへと転々としたが結局ニューヨークで彼の兄弟のユラ(Yura)と共に機械加工の会社を興すこととなった。戦後、ユラとゾラはかつて作られたシリ
ンダーヘッドの中でもっとも著名なフォードのサイドバルブV8エンジン用オーバーヘッドバルブ式「アーダンヘッド(Ardun つまりArkusとDuntovの文字の頭を組み合わせたもの)」を設計・製作した。
ドイツで学生だった頃、ゾラはオートバイを購入し、後には古めかしい50馬のレースカーを購入した。これを手始めとして彼はレーシングエンジン設計の野に、そして彼自身レースの世界に足を踏み入れる事となった。ほぼ30年の間に亘って、彼はグランプリ・タルボ、チシタリア、アラド、そしてポルシェをドライブした(Grand Prix Talbots, Cisitalias, Allards, and Porsces)。ルマンにおいて
彼はアラドではレースをフィニッシュすることが出来なかったが、1954年と1955年にポルシェで2度のクラス優勝を成し遂げた。彼は1956年式コルベットのプリプロダクションモデルを駆って1955年、パイクスピーク(Pikes Peak)でストックカーの記録を打ち樹てた。そして1956年、デイトナビーチにおいて1956年コルベットで当時のプロダクションスポーツカーの記録を打ち破った。一方彼の最後のレースは1960年、シカゴ近郊のミードウブルック(Meadowbrook)においてコルベットではなく250Fマセラーティで行われた。
1950年代初頭、ダントフは雷鳴轟くが如く走るアラド・レーシングカーの製造元である「シドニー・アラド」の技術コンサルタントとして働いていた。そして1953年1月、ウォルドーフ・アストリアで開催されたジェネラルモータースのモトラマにおいてダントフは他の何千人もの人々に混じってコルベットのデビューを見た。ダントフがコルベットの外観から受けた印象は好ましいもので彼は「自分が今まで見た中でも最も魅力的なスポーツカーだな」と感じた。一方で「だがこれはエンジンなしのガランドウだしそれほど個性的でもないな」と感じたのも事実だった。しかしこの車は大きなポテンシャルを秘めているし、自分はこの車つくりに参加するべきだとその時ダントフは確信したのだった。続いて彼が自薦の手紙をシボレーに送ったところ彼はシボレーから採用のオファーを受け取った。彼は喜んでそれを受け入れ、1953年5月、ダントフはシボレーのリサーチ&デベロップメント部門に加わったのだった。
シボレーで働き出して僅か6週間の後、ゾラはアラドでレースをするために休暇が欲しいと願い出た。レースから戻ってくると彼は先進的技術プロジェクトの基礎実験に18ヶ月かそこら従事して過ごしたがしかし1955年初頭、ゾラは来たる1956年コルベットの「操縦性を高める」様に指示された。ついでにそれまでの取り外し可能なプレキシガラスに置きかわる回転ハンドルによる巻き上げ式ウィンドウを設計するようにも指示された。その結果はよりバランスのとれたサスペンション、改善されたハンドリング、巻き上げ式ウィンドウ(これはオプションでパワーウィンドウも選べた)、そしてヘッドルームの余裕となってあらわれた。
ゾラの赫々たる業績は今や明らかなものでゾラはほどなくコルベットの中心人物となった。ゾラがその一線を退いていた時にデザインされた1968年式モデルを例外としてすべてのコルベットは「ミスター・コルベット」の承認スタンプを受けていた。彼は1963年にはコルベットのエンジンとシャシーの責任者に任命され、1968年には「チーフ・コルベット・エンジニア」と命名された。
過去20年間に製造されたコルベットはどれもがある意味、ダントフの動くモニュメントである。彼の特筆すべきエンジニアリング上の業績について言えば、それは余りにも多岐に亘るのでリストを作ることすらおぼつかない程である。
フューエルインジェクション、ディスクブレーキ、リトラクタブルヘッドライト、リミテッドスリップデフそしてまだまだリストは続くのだが、ここではダントフは最初はコルベットに、そして後には他のより一般的なGM車にも前述の多くの先進的なデバイスを率先して導入したエンジニアリングの天才であったと言うにとどめておこう。多くの先進的なデザインの車にダントフはその痕跡を残して
いる。1957年式コルベットSSレーサー(これは現在インディアナポリス・スピードウェイ博物館にある)と1960年式ミッドエンジン、ホイールむき出しのシングルシーター"CERV 1" はほんの一例となる二台である(このあたりの事情に興味をもたれた読者はカール・ルドヴィクセン著『Corvette, America's Star-Spangled Sports Car』を参照されたい。この件に関する最上の研究と言える)。研究マシンとして製作された「CERV 1」には色々な研究目的があったが、後に1963年式スティングレイで実現された四輪独立懸架の試験台でもあった。
訳者註:『CERV 1』とは"Chevrolet Experimental Racing Vehicle" の略だそうです
ダントフが彼のコルベットと過ごした年月を回想するとき、彼のキャリアにおいて重要な役割を果たしたのは「タイミング」であったと彼は考えている。コルベットがぽんと彼の前に出てきた時、彼もすぐコルベットに対して準備万端といえる状況にあった。フォードは1958年モデルをもって2シーターのサンダーバードを放棄したが、シボレーはコルベットを墓場に葬るのではなく、それを続行する道を選んだ。「我々はフォードが2シーター市場から去るのは我々にとって絶好の機会だと捉えたね。で、我々はサンダーバードが立ち退いたその場所を占拠する事ができると確信したのさ。その時点で私は1955年に700台だったコルベットの生産を20,000台かそれ以上に引き上げることが出来ると言うこと、そしてそれに伴って工場の生産能力について計画を立てなければならないと言うことを確信していたね。まあでも当時は誰も私と同じ確信を共有しているようには見えなかったんだがね」とダントフは回想する。
シボレーの定期的なトップの交代と同じくGMのレースに対するポリシーの変化が彼の仕事に影響を与えた。デトロイト首脳陣のレースに対する愛憎入り交じった態度はダントフほどに重要でない人物をさえ打ちのめしたのではないだろうか。GMでのそのキャリアの殆どをダントフは、人間的には少なくとも寛容ではあるとしても、レースに対してはエンスージアスティックでないだけでなくスポーツに対してはっきりと否定的なGMの首脳陣と共に働いた。会社の役員達は単に「それをやったからといって一体どれほどの車が売れると言うのだ?」と考えていたのである。かくしてシボレーとダントフだけが1957年に「Automobile Manufacturers Association(自動車製造者協会--AMA)」が「スピードコンテスト」にメーカーが参加するのを禁止するまで堂々とレースに関与していたのである。
訳者註:GMの中でレースをやっていたのはシボレーとダントフだけだったという意味でしょう
1962年、フォードはレースに復帰した。AMAがレースに対して「もっと自由にやってよい」という決議をしたのを見ての事である。ダントフはGMもフォード同様レースに参加しないかという希望を持ったが残念ながらそうはならなかった。そんな訳でゾラは「コルベットの性能を引き上げる」作業、そして場合によっては選ばれたレーシングドライバーとチームのために高性能コルベットを「貸与する」作業を黙々と続けたのだった。スペシャル・コルベットをたずさえてダントフがデイトナやセブリングにあらわれた時、彼は「あなたがここにいる理由は何か」と問われると「多くの我々の顧客がここでレースをしている。だから我々はレースコンディションにおける我々の製品の限界と言うものを知っておく責任があると感じたからだね」と穏やかに答えたものだった。
ダントフのもっとも大きな失望(彼自身が「最大の失望」とそれを語っている)、それはGMが下した「ミッドシップエンジンのコルベットは製造しない」という決定だった。彼はこの車のために激しく闘い、そして時々それはほとんど実現するかに思えたのだった。しかし1973年、遂に彼は「この車は生産されない事になった」と通告され彼のこのプロジェクトが終了したことを知ったのだった。現行のコルベットは満足すべきセールスの成果を挙げていたし、全くのニューモデルのために色々な設備を用意する高いコストを払うことなどは少なくとも向こう5年は考えられないことだった。1974年の12月、ダントフはGMの職を引退した。そしてダントフはオール・ニュー・コルベットの開発業務に終止符を打つこととなったのである。そして彼はその興味を「超高効率エンジン」の研究に向けることとなった。というのも当時、石油危機が現実のものとなっており、パワフルなだけでなく高効率なエンジンに対する研究の必要性が高まっていたからである。
今日、アーカスダントフはデトロイトで最もしゃれた雰囲気を持った郊外の住人として人生を楽しんでいる。彼のエンジニアとしての、そしてレーサーとしてのキャリアを示すノベルティに囲まれ、彼は読む時間もないほどの量の本や雑誌を持っており、そして彼は今でもけっこう定期的にGMのテクニカルセンターに出かけてゆく。近ごろでは彼は再び飛行機のエンスージアストとなっており、自家用飛行機を購入して再び空を飛ぼうと計画している。もしひとつ明らかな事実があるとすれば、彼はいまなお活動的であり、彼がコルベットにおいて「ゾラの功績」として成し遂げたような努力を傾注する対象を今もなお探し求めているという事である。
訳者註:出典書はまだゾラ・アーカス・ダントフが存命中だった1975年初版《私が買ったのは1989年印刷の第4版》であるためこのような文章になっています。実際のダントフ氏は1996年4月21日、86歳にて逝去されております