25) スポーツカー・レース界のニューカマー、1956年コルベット

今回はセブリングでの成功のあと、急遽スポーツカー・レースのシリーズ戦を闘うことになったコルベットのストーリー。

出典書:
Corvette
AMERICAN LEGEND
Vol.3 1956 Racing Success
by Noland Adams
published by Cars & Parts Magazine
Rating:  
 前回に引続き上掲書から。セブリングで感動的な成功を収めたコルベットでしたがその後続けて1956年のアメリカ国内のスポーツカー・レース・シリーズに継続してエントリーする事になりました。なんでそうなったのかというと、これが良く判らない。勢いとしか言いようがない。色々と本を読んでいても「レースをすれば広告効果がある事がわかったので潜在的な顧客需要を喚起する意味でもそれには意味があったのだ」みたいな一般論が書いてありますが、どうも釈然としません。私の考えですがこれは単に「タテマエ」ではないでしょうか。大体この頃のコルベットの販売台数などシボレーのセダンに比べたら完全なゴミ同然の台数で、その結果として宣伝広告費もロクに割り当てて貰えない車だったのです。ベルエアやトラックなんかは恐ろしく売れる車だったのでテレビ、ラジオ、雑誌などでコマーシャルがガンガン流れていたのですがコルベットは雑誌広告だけ。そんな利益も何もない車が何でレースを続けることが出来たのか?

 結局シボレーの人間が「やりたくてウズウズしていたから」というのが一番事実に近いでしょう。特に大きかったのがレース好きのエド・コールがシボレーの親分だったと言うこと、そしてハーリー・アールがコルベットを気に入っていたという事。この二人がGMの重役達や経理部門を黙らせたと思います。

 1956年のこの頃のシボレーの開発部門は語弊を恐れずに言えば「大バカヤロー」ばっかりでした。状況証拠的に見てダントフの頭の中は「世界で最速のレーサーを造ってやるぜ」みたいな事ばっかりだったと思われますし、ビル・ミッチェルの頭の中も「オレ様のデザインで世界最高のスポーツカーを造ってやるぜ」みたいな野望でいっぱいだったと思われます。エド・コールだって「オレ様のコルベットがレースで活躍しないなんて耐えられないぜ」みたいな考え方だったしハーリー・アールなんかもブリッグス・カニンガムに「お前んとこはまともなスポーツカーひとつ作れんじゃないか」と言われた事をすごく根に持って何とかコルベットをまともなスポーツカーにしたいとマジでバックアップしていました。

 この頃の開発部隊が見えないところで何をやっていたかを考えてみるとSR-2はもう走っていたし、ダントフはXP-87およびXP-64、つまり「コルベットSS」の開発に着手していました。また革新的「Qコルベット」(XP-84)の構想も既に実質スタートしていたと思われます。この頃のシボレーの技術的先進度、先鋭度には瞠目すべきものがあり、何だかシボレーの開発部門全体が熱病にうかされて「行け行け」状態になってしまっていた感があります。ダントフあたりが「フッフッフッ、オレ様がこれから造るコルベットSSにファンジオあたりを乗せたら一発で『世界』が獲れる筈だぜ。待ってろよ」と思っていたのはほぼ確実でしょう。結局この「熱病」はGMのゴードン社長が「お前らいい加減にせんか!レースばっかりに夢中になりおって。禁止!もうレースは禁止だ!」と宣言するまで続きました。もしゴードンが中止命令を出していなかったらシボレーはどこまで突っ走っていったか見当もつきません。「ベルエアもガンガン売れて儲かってるんだし、まあこれくらいの事やったっていいじゃないか」と思ってたんでしょう。

 余談が長くなったのでこの話はこれまでとしますが、だからコルベットがいきなりレース活動を始めたのは「シボレーのバカなおじさんたちが単にそれをやりたかったから」というのがその理由で「技術力の誇示」だの「宣伝効果」というのは結果的にそういう効果があっただけに過ぎないというのが私の考えです。

 このノーランド・アダムスの本はそう言ったことを考える上で大いにヒントとなる様々な事実を提供してくれます。コルベットの歴史に興味ある人は絶対見逃せない本であると言えましょう。興味を覚えた方はどうぞ原書をamazon.comなどでお求めになって是非続きをお読みください。



●1956年シーズンを闘うコルベット

 1950年代前半、ディック・トンプソン(Dick Thompson)はウィークデイはワシントン D.C.で歯科医として働いており、そしてウィークエンドの彼は手強いスポーツカードライバーとして知られていた。ドクター・トンプソンはMG、メルセデス、ジャガー、そしてポルシェでレースをしていた。その運転技能と職業からいつしか彼は「空駆ける歯科医」(The Flying Dentist)というニックネームで呼ばれるようになった。

 前章で述べた通り、ジョン・フィッチは1956年の3月、セブリングにおいて4台のコルベットチームを指揮した。その時、同じレースにおいてディック・トンプソンがポール・オシーア(Paul O'shea)のメルセデス300SLの副ドライバーをしていた事もあって、トンプソンのドライビングの腕前は既にジョン・フィッチの着目するところであった。

 デイトナビーチとセブリングにおいてシボレーが挙げた成果は大いなる宣伝効果を巻き起こしたのだが、これについてシボレーの上層部とシボレーの広告代理店であるキャンベル・エワルドは大いに喜んでいた。そして新しくV8が載せられたコルベットの動力性能を潜在的な顧客層にアピールする手段としてシボレーはSCCA(Sports Car Club of America)のレースに出場するコルベットをスポンサーすることに決めた。シボレーは既に実績のあるジョン・フィッチと恐らくもう一人のドライバーを起用するつもりであった。

 だが、SCCAはあくまで非プロフェッショナル・ドライバーのための団体だった為、シボレーは1956年シーズンを通してこのSCCAのレースでコルベットをアピールする能力のあるウィークエンド・ドライバーを見つける必要があった。

 ジョン・フィッチの知り合いだったポール・オシーアはディック・トンプソンをその任に推薦した。シボレーの責任者たちもこれを承認した。フィッチはトンプソンを呼んで以下の様なオファーを提示した。

「もし君がコルベットを買ってくれればシボレーはあらかじめレース用にセットアップされたコルベットを最初のレースのために君にデリバリーする。レースが終った後はその車は特定のシボレーのサービス工場に入れられる。だから君はそのコルベットをどこかが壊れるまで思いっきりハードにドライブしてもいい。そしてサービス工場で車は分解され、検査され、そして完璧にリビルドされてから次のレース前には君のもとに戻される」

トンプソンは「長い間レースをやってきたがこんなにいい条件を提示されたのは初めてだ」と言ったと伝えられている。

↑2台のメルセデス・ガルウィング300SLとジャガー?を従えてトップを力走するディック・トンプソンの56コルベット。実に美しい風景である。
↑2台のメルセデス・ガルウィング300SLとジャガー?を従えてトップを力走するディック・トンプソンの56コルベット。実に美しい風景である。
↑2台のメルセデス・ガルウィング300SLとジャガー?を従えてトップを力走するディック・トンプソンの56コルベット。実に美しい風景である。

え、もうわかった?くどい?じゃー今日のところはこれくらいにしときますか!ちなみにこの頃はまだオリジナルのフロントウィンドウでおまけにハードトップまでつけて走ってます。理由は不明。6月だし寒かった訳ないだろうと思うのですが。あと、良く見ると公道走行用のナンバープレートもついたまま。最初の頃は準備不足でトンプソンも自走してサーキットに行ったりしたらしいからそのためでしょうね。
↑こちらがMGを蹴散らし、ジャガーをブチかまし、ベンツ300SLをドツキ回した我らのヒーロー、ディック・トンプソン大先生のご真影である。この写真は有名であちこちの本で見ますね。頭脳明晰で快活だがひとたびレースになると全力を尽くす、典型的な昔気質のアメリカ青年といったところか。この頃にはもう既にオリジナルのフロントウィンドウは撤去されてプレキシガラスになっている。ちなみにこの車の向こうを歩いている白服のとっつあんは確かホットロッドマガジンだったかの名物編集長だとかいう話。以前何かの本でそう読んで「そうか、ホットロッドの人間もスポーツカーレースをウハウハ見に来たのか」と思ったので覚えてます。
↑これは(セブリングの時もそうだったが)シボレーが「勝った勝った!」と連呼して騒いでいる雑誌広告。不鮮明ながら下半分の記事を流し読みしてみると「最上のヨーロッパ製スポーツカーと全く劣らないコーナリング性能を証明した」だとか「優秀なクロスミッションと2種類のデフがスポーツマインドなドライバーのお気に入り」とか「パワーウェイトレシオ上有利なファイバーグラスボディ、そしてスペシャルブレーキ・ライニングがついている」だとか「パイクスピークスのレコードホルダー車と同じエンジンでデイトナではスピード記録を樹立、NASCARショートトラックのチャンピオン車と兄弟エンジンで馬力は何と210馬力」だとかもう書きたい放題である。だいたいコルベットが格別に軽量な車ではないという事はこの広告の文章を書いた人間以外は地球上の誰もが知っている事実ではないか。だが「こいつ、一体なに言ってんだ?」と怒ってはいけない。私はこの広告を好ましいと思います。コルベットがスポーツカーレースという未知の分野に準備不足のまま乗り込み、そして勝った。これは誰も異議を唱えようもない事実だからです。むしろ私はこれらの美辞麗句の数々をシボレーの無邪気な歓喜の現れと見ます。そう、勝者は勝ち誇っていいのです。
 最初のレースは1956年6月23日/24日、カリフォルニアはモンタレーのぺブルビーチ(Pebble Beach)だった。そのレースではぺブルビーチ・コンクールも併せて開催された。

(ちなみにこのレースは公道を使って行われるものだったが、観衆を巻き込む事故が起こった為、この公道を使用したレースはその後ほどなくして禁止となった。現在でもぺブルビーチ・コンクールはトップクラスのイベントとして存続しているがレースの方はずいぶん前に中止されてしまった。今では8月のぺブルビーチ・コンクールの週末に「モンタレー・ヒストリックカー・レース」としてコルベットを含むビンテージカーたちが集うイベントが毎年行われている)

 ところで、実はトンプソンはそれまでコルベットでレースをしたことは一度も無かった。実際のところ、彼はコルベットを近くで見た事すら無かったのである!

 トンプソン用のコルベットの準備は整ってディーラーに用意された。ディック・トンプソンはその1956年式コルベットを受け取った。それから彼は直接ぺブルビーチに走って行ってレースに出場したのである!

 ジョン・フィッチとメカニック達がぺブルビーチ用に施したモディファイが素晴らしかったのでトンプソンは喜んだ。トンプソンはこのコルベットはジャガーXK-140よりも、メルセデス300SLよりもハンドリングが良かったとレポートしている。これはトンプソンがそれらの車を全部運転した経験があるから言える事である。

 だがブレーキのフェード問題はまだ解決していなかった。トンプソンの言葉を借りれば「だがこいつはひとつ、大きな問題を抱えていた。止まろうとしなかった事だ」という事になる。

 ブレーキの他にも、キャブレターがまだ問題を起こし続けていた。きついカーブを曲がる時、エンジンにガソリンが供給不足気味となり、どうかするとエンジンは完全に息の根を止めてしまったのである。だが幸い、トンプソンの車を最上のコンディションにキープするために派遣されたシボレーのファクトリーエンジニアのフランク・バーレル(Frank Burrell)という男がいた。プラクティス中にこの問題が起きた時、フランクはこの問題に対して有効な対策を施したのだった。

 エンジニアのバーレルがこのキャブレターのトラブルを直した後、トンプソンのコルベットはコース上最速の車である事が証明された。トンプソンは以下のように回想する。

「ベンツの300SLをブチ抜くのには何の問題も無かったね。全部で5台くらいいたと思うんだが。コルベットの方がコーナリングが良かったし加速も良かったし、ついでに暫くの間はブレーキも奴らと同じくらいには効いたしね」

 レースは始まった。トンプソンはアクセルペダルを床まで踏み付けすぐさま集団の先頭に立って、第一コーナーを目指してストレートを駆け下りた。コルベットがいとも易々とレースのトップに立った時、シボレーの宣伝部門のバーニー・クラーク(Barney Clark)は狂喜乱舞した。レース活動は宣伝材料として使われていたため、このレース計画は部分的には彼の監督下にあったからである。

 トンプソンは熟達したドライバーのごとくコルベットをドライブした。しかしツイスティなぺブルビーチのコースはやがてコルベットのブレーキに負担を与え始めた。レースもあと2周を残すだけとなった時点で、コルベットのブレーキは完全にダメになってしまった。3速のトランスミッションとエンジンブレーキだけがコルベットが持つ制動力の全てだった。残り周回数もあと僅かとなった時点でベンツの300SLがトンプソンを捉え、そして勝利を奪って行った。

 だがブレーキトラブルさえ無ければトンプソンのコルベットはSCCAのレースで勝利をもぎ取っていたはずだった。これは誰もが想像しなかった事態だった。エド・コール、ゾラ・アーカス・ダントフ、フランク・バーレル、バーニー・クラーク、そしてシボレーの全員が大いに喜んだ。

 ここに雑誌「スポーツカー・イラストレイテッド」1956年8月号の記事があるので紹介しよう。

「日曜日の朝になると誰もがコルベットと、それまでは最も事情通のレースファンにさえぼんやりと記憶されている程度のものだったディック・トンプソンという名のドライバーについて口々に話題にしていた。1ダースものスペアタイヤ、1基のコンプリート・スペア・エンジン。トンプソン達が本気である事は明らかだった。トンプソンはプラクティスでジャガーよりも速く走り、メルセデスベンツと互角のタイムをたたき出すことによってライバル達を呆然とさせた」

 現在、当時は知られていなかったいくつかの事実のディテールが明らかになっている。まず最初に、トンプソンはジャガーやメルセデス・ベンツ300SLのレーシング・ドライバーとして良く知られていたが、それは東海岸での事だった。だから西海岸でトンプソンが無名だったのは驚くには値しない。また「本気」に見えたトンプソンのピットがスペアパーツ満載だったのはシボレーのバックアップがあったからである。

ここで「スポーツカー・イラストレイテッド」に戻る。

「だがレースがスタートすると、クレイエ(Cleye)がすぐさまリードを奪ったのでこのレースはいつもの展開と余り違わないものになるのでは無いかと思えた」

 クレイエは特別速い白いメルセデス300SLに乗っている事で有名だった。だが彼の白いメルセデスはレース直前の事故でひどいダメージを受けていた。クレイエは昨年までポール・オシーアがレースに激しく使用していたメルセデス300SLに乗っていたのである。

再び「スポーツカー・イラストレイテッド」に戻る。

「だがそうはならなかった。第6コーナーまでにはセテンバー(Settember)とトンプソンの二人がクレイエの前にいた。そして遂にコルベットがトップに立った」

(アンソニー・セテンバー《Anthony Settember》はメルセデス300SLをドライブしていた)

「2周目の終わり、クレイエの車のコクピットはエンジンルームから吹き出して来た青い煙でいっぱいになった。6周目、クレイエはメインストレート終わりのエスケープロードに入った。車の両横からは炎が吹き出していた」

「暫く後、トップはセテンバーに入れ代わった。コルベットもレースの最後の最後までテール・ツー・ノーズで食い下がる。だが結局メルセデスを追い抜く事は出来なかった」

 ドクター・ディック・トンプソンは1956年を通じてコルベットでレースを続けた。ブレーキは常にオーバーワークにさらされ、レースで走る度に文字どおり焼けて、バラバラに破壊されたのだった。ヘビー・デューティ・ブレーキシュー・リターンスプリングというのが唯一の改良だった。だがブレーキの改良には制限があったのである。それはこのコルベットが「プロダクションC」クラスを走っていたからで、このクラスにおいては車に取り付けられているパーツは全て一般に購入出来るものでなければならなかった。ヘビーデューティなアフターマーケット・パーツの取り付けは禁止されていた。かくしてブレーキはコルベットのウィークポイントであり続けたのである。

 ディック・トンプソンは東海岸に住んでいたのでゼッケン46のコルベットはトラックに載せられて東海岸に戻って行った。1956年9月号の雑誌「ロード&トラック」(Road & Track)を見るとウィスコンシンのロード・アメリカにおけるトンプソンのレースについて以下のような記事を見つける事ができる。

「レースのスタートと同時にディック・トンプソンの赤いコルベット・クーペ(訳者註:もちろん『クーペ』と言ってもコンバーチブルにハードトップをつけていただけです)はトップに躍り出て最初の一周を3分15秒で終えて尚もレースをリードしていた。直後には3台の別のコルベット、そしてぽつんと一台のジャガーXKが4位にいた。この赤いコルベットのぺブルビーチでの活躍を知らずにいたアナウンサーはコルベットのブレーキがフェードするのではないかと何とかの一つ覚えのように言い続けていた。9周目、トンプソンはフェードではない別のブレーキトラブルに悩まされていた。リアブレーキがロックしてスピンしてしまい、タイヤは偏磨耗、そして順位は4位にまで落ちてしまった。だが次にリードを奪ったのもやはりコルベットに乗るバック・ヘンリー(Buck Henry)だった」

 このレースはトンプソンが表彰台に上がれなかった珍しいレースのひとつとなったのだが、このレースをある二人の男が観客として見ていた。ひとりはレーサー・ブラウン(Racer Brown)で、もうひとりはボブ・ドゥオリーヴォ(Bob D'Olivo)である。二人は「ホットロッド」マガジンに記事を提供していた。正確にはブラウンがライターでドゥオリーヴォがカメラマンだった。彼らの行動がスポーツカー・レーシングの方向性を一変させる事になったのである。

(訳者註:多分この二人組のこの後の行動が、その後レース・トラック上がコルベットだらけになるきっかけとなった、という意味だろうと思います)

 二人は共にSCCAのレースの経験があった。二人は自分達も、トンプソンのゼッケン46のコルベットみたいに車をセットアップして、レースで結果を出す事ができるのでは無いかと考えたのだった。二人はシボレーの人々と面識があったのでゾラ・アーカス・ダントフにあるプランを持ってアプローチした。「我々にコルベットを貸与していただけませんか?我々はそれでレースがやれると思います」というのである。

 二人が話を持って行ったタイミングがまた絶妙だった。トンプソンのゼッケン46のコルベットは東海岸に移動されていた。二週間のうちにオークランドのオークランドのヴァル・ストロー・シボレー(Val Strough Chevrolet in Oakland)から3速ミッションを搭載した一台のコルベットが南カリフォルニアのレーサー・ブラウンとボブ・ドゥオリーヴォの手元にデリバーされた。この車の所有権はカリフォルニア地区、オークランドのシボレーの販売企画部マネージャーのリチャード・G・ジェス(Richard G. Jess)氏のものであった。

 そのピカピカの新車の1956年式コルベットは納車時に大きな白い丸い部分にゼッケン106と書いてあった。そして2本の白いストライプがレーサーの常としてボディを縦に真直ぐ走っていた。

 ドゥオリーヴォは回想する。

「そのコルベットはゼッケンつき、ストライプつきの状態で火曜日に納車された。レースは土曜日だった。で、車の中身は完璧なストックのまま。エキゾーストパイプがサイドに直管で出ている事以外はレース用にモディファイされた部分はなかった」

 ストックの状態ではそのゼッケン106のコルベットにはラジオがついていた。という事はイグニッションシステム全体がシールド用の金属板で覆われていたと言う事を意味している。しかもこのコルベットは幌を機械仕掛けで張る「パワー・トップ・メカニズム」のオプション車だったので油圧ポンプ、シリンダー、ホース類やらバルブやらスイッチやらが全て完璧な状態で取り付けられていた。これらはすぐさま取り外された。これで70パウンド(約31kg)の軽量化になった。

 このゼッケン106のコルベットには1956年時点では最大出力を誇る「ダントフ・カム」が取り付けられていた。公称馬力は240HP/5800rpm、最大トルクは265ポンド/フィート(約36kg/m)であった。265キュービック・インチ(4340cc)のV8エンジンとしてはなかなかの数値である。

 3月に行われたセブリング12時間レースの時、ジョン・フィッチとそのメカニックたちは4台のコルベットをレース用に開発していた。タフなコースを走ると次から次へとパーツが壊れた。レースをするには元の状態のコルベットは余りに欠点だらけだったのである。その結果として数多くのオプション・ヘビー・デューティ・パーツが設計され、製作され、カタログにも載せられて、それらは他の1956年式コルベットに乗るドライバーたちにも供給される事となった。これはSCCAの規定を満たす為の必要条件だった。それらのパーツを一般に供給する事によって、その車はモディファイド・クラスではなくプロダクション・モデルであると見なされたのである。

 ゼッケン106のコルベットにはそれらの入手可能なヘビー・デューティ・パーツが全て取り付けられた。ハンドリングを改善するためのヘビー・デューティ・キットなんてのも含まれていた。これには強化Fスプリング、リアの非線形バネ、大径アンチロールバー、デルコの強化ショック4本などが含まれていた。スプリングはノーマルよりも20%堅く、ショックも20%ダンピングが強化されており、そして直径3/4インチ(19mm)のアンチロールバーはノーマルより16%程堅いものだった。

 ゼッケン106のリア・リーフ・スプリングはより大きな弧を描くものだった。タイヤの空気圧は色々と試された結果、4本とも大体27psi(約1.9キロ)がベストだった。また、エングルバート(Englebert)のタイヤが一番性能が良かった。

 ブレーキはこの車の最大の弱点だったので最も注意が払われた部分である。この車にはオプションの「メタリック・ライニング」が取り付けられた。そのライニングにはあらかじめ四角く成形された浸炭ブロンズの素材がブレーキシューに直接ろう付けされていた。その素材のサイズは長さ2.5インチでフロントが幅2インチ。リアは1.75インチ幅だった。プライマリー・シューにはこの素材が2枚使用され、セカンダリー・シューには4枚使用された。ブレーキドラムは鋳鉄製の11インチ径のスタンダードのものだった。

 実際に使ってみると、通常のSCCAのレースにおいてはこの浸炭メタルブレーキのストッピング・パワーは実に有効なものである事が証明された。セブリングの12時間耐久レースに比べてこれらのレースはみなずっと短距離のものだったという事は覚えておかなければならないが。だがそれでも最終的にはブレーキが強烈にオーバーヒートする事には変わり無く、ヘビーデューティ・ブレーキシュー・リターン・スプリングは壊れ、通常グレードのブレーキフルードは沸騰してしまった。

 そんな訳でブレーキ・リターン・スプリングはレースごとに交換された。結局5つのレースが終わってみるとこの車はブレーキドラムを3セット、メタリック・ブレーキ・ライニングを1セット使い切ってしまった。

 レーサー・ブラウンとボブ・ドゥオリーヴォはディック・トンプソンが西海岸でレースをするためにこのゼッケン106のコルベットを仕上げた。だがディック・トンプソンが東海岸でレースをしている時には、このコルベットが遊んでいる事がままあった。そこでブラウンとドゥオリーヴォはシボレーにコンタクトしてトンプソンが西海岸にいない時にこの車を走らせてもいいかどうか打診してみた。するとシボレーの答えは「もちろん結構だ」というものだった。

↑ストレートでメルセデス300SLをブチ抜くディック・トンプソン。まるで夏の高原の朝のように爽やかな風景である。
↑ストレートでメルセデス300SLをブチ抜くディック・トンプソン。まるで夏の高原の朝のように爽やかな風景である。
↑ストレートでメルセデス300SLをブチ抜くディック・トンプソン。まるで夏の高原の朝のように爽やかな風……、え、いい加減にしろ?じゃー今日のところはこれくらいにしておきましょうか!ちなみにブチ抜かれている300SLは白なのでドライバーは本文中にもありますが、ペブルビーチで途中で火煙りをたててリタイヤした可哀相なクレイエさんではあるまいか、と思ったりします。ヤレヤレ、災難でしたねえ。
 ところで本文中にもありますがクレイエさん、ディック・トンプソンがチャンピオンを決めたパームスプリングスのレースでは一体何をそんなに腹を立てたものかレース後のクリアラップでトンプソンに拳を振り上げて嫌な事をしたって書いてあります。考えてみれば車が火を吹いてリタイアしたりして、そのうちにポッと出の新人(西海岸では)がタイトルを持って行ったりすれば私でも腹が立つかも知れません。可哀相だから許してあげましょう。
↑これは多分パームスプリングスでのパドック風景。真ん中がゼッケン106の西海岸用コルベット。他はやっぱメルセデスとかジャガーとかエキゾチックな車が多い。
↑1956年11月4日、パームスプリングにてチェッカード・フラッグを受けるディック・トンプソン。写真には写ってないが本文のレース経過から判断するに、この直後にはキャシー・ベイツじゃなかった、ジャック・ベイツのメルセデス300SLがいた筈である。どうでもいいが良く見るとこの106のコルベット、まだライセンス・プレートがついたまま。たまには公道走ってたんですかね?
 そこで二人は経験豊かなロード・レースドライバー、ビル・ポラック(Bill Pollack)を起用することにした。その結果、ブラウンとドゥオリーヴォは有能なメカニックである事が証明されたし、トンプソンとポラックは有能なドライバーである事が証明されたのである。この4人が力を結集した結果、彼らは人々がうらやむ程の記録の山を築く事になった。このゼッケン106のコルベットは他のコルベットたちを簡単に打ち破って、沢山の優勝トロフィーを持ち帰るのが常となった。

 ドクター・トンプソンはゼッケン106のようなスペシャル・コルベットを駆ってアメリカ中を転戦した。中でも1956年8月11日と12日、ワシントンはブレマートン(Bremerton) のシアトル・シーフェア(Seattle Seafair)レースにおいてトンプソンはゼッケン106のコルベットを完璧にドライブした。3台の速いメルセデス・ベンツ300SLに15周もの間(距離にして60マイル、96キロにもなる)うるさくつきまとわれたのだが、トンプソンは結局総合1位、そして勿論クラス1位でこのレースを制したのである。このシーフェアのレースにおいてトンプソンは古い仲間でもあるポール・オシーア(Paul O'Shea)と闘う事になった。以下に1956年11月号の雑誌「ロード&トラック(Road & Track)」の記事を引用する。

「このコルベットとメルセデスのバトルは観客達にこの日最大のスリルを味あわせる事になった。このレースはぺブルビーチでの敗北に対してコルベットがリベンジを果たしたと見る事が出来る。真紅のコルベットを駆るディック・トンプソンはこの15周の闘いにおける2周目にポール・オシーアのメルセデス300SLからリードを奪った。周を重ねるごとにトンプソンは少しずつリードを拡げたが、だからといってそれは決してその恐るべきペースを落とす事が出来る程充分なものではなかった。だが6周目、コルベットはついにオシーアとの間にストレート1本以上、ほぼ1マイル近い差をつけるに至った。ここに至ってトンプソンはコルベットのペースを落とし、現在の2台の間にある距離をいかにキープして走るかという作業に専念した。そして残りあと5周というところでオシーアの300SLはバルブタペットを壊してにわかに調子が悪くなった。6気筒のうち5気筒しか動かない状態でコルベットを打ち負かそうというのは無理な相談だ。結局トンプソンのコルベットは2位のメルセデスに30秒の差をつけてチェッカーフラッグを通り抜けた。第3位は同じくメルセデスに乗るジム・クラップ(Jim Clapp)が獲得した」

 1956年11月3日と4日、パームスプリングス(Palm Springs)においてトンプソンは再びゼッケン106のコルベットをドライブした。ブレーキのフェードに苦しみながらもトンプソンは最終ラップに至るまでメルセデス300SLとがっぷり四つの闘いを繰り広げ、かろうじてこれを降して優勝を飾った。そしてこのレースにおける勝利がコルベットに初めてのアメリカ・チャンピオンの座をもたらしたのである。

 1957年2月号の雑誌「ロード&トラック」で見つけたパーム・スプリングスでのレースに対する記事を以下に引用しよう。

「競技者たちは3000cc以上のプロダクションカーとメルセデス300SL(こいつは勿論ぎりぎり3000cc以下であるが)で10周を走った。スタート直後から、300SLに乗るジャック・ベイツ(Jack Bates)、同じく300SLのポール・オシーアがこの順番でファーストラップを走り切った。(中略)とにかく、オシーアはオイルラインのトラブルで戦列を去り、トンプソンはベイツのメルセデスを最終ラップで抜き去って勝利に向かってひた走りに走ったのである。ゴール通過後のコース上でクレイエ(Cleye)は腹立ちの余りか、トンプソンの前に自分の車をかぶせて拳を振り上げていた。少なくとも金を払った観客たちは良いショーを見たことになる」

 トンプソンは4つの西海岸のSCCAレースといくつかの東海岸のレースを闘った。彼は一貫してコンペティティブなドライバーだった。そしてトンプソンは1956年のCプロダクション・クラス・チャンピオンを勝ち取ったのである。何と言う大勝利であろうか!

 ドクター・トンプソンのドライビングによる1956年式コルベットは明らかにCプロダクションクラスの支配者だった。トンプソンの獲得した総ポイント数は10,000。第2位と3位のドライバー(どちらもジャガーである)のそれはおのおの5,500と2,000ポイントに過ぎなかった。

 1956年のSCCAレースにおけるコルベットの関与とその戦果はいくら強調しても強調され過ぎる事はないであろう。それは栄光に満ちた時であった。そしてこれがSCCAにおけるコルベットのレース伝説の始まりだったのである。



28 July 2001