24) 1956年3月24日、セブリングにおけるコルベット

今回はデイトナ・ビーチでの成功の余勢をかってセブリング12時間耐久レースに挑戦したコルベットの話

出典書:
Corvette
AMERICAN LEGEND
Vol.3 1956 Racing Success
by Noland Adams
published by Cars & Parts Magazine
Rating:  
 本書はコルベット研究家として有名なノーランド・アダムスのコルベット・ヒストリー・シリーズの第3巻です。このシリーズは内容的には非常にマニアックな部類に入ると思います。読んでいても時々普通のコルベット本に書いてあることとは正反対の事実が書いてあったりするのが目を惹きますし、シボレーの技術者にインタビューして事実関係を取材したりしているところなども実に興味深い。数々のモノクロ写真も珍しいものが多くて思わずじーっと見てしまいます。ただ現在第5巻まで出ていますがそれでもやっと1960年に辿り着いたところでまだC1の話をやってます。これではC3に辿り着く頃には第10巻を越してしまっているのでは無いかと心配になります。でもノーランドおじさんに敬意を表して全巻付き合って行こうかなと思っています。ただこの本は言ってみれば微に入り細に渡っている上に何巻かに分かれているので「初めて買うコルベットの本」としては少し考えた方がいいかもしれません(ちなみに『初めて買うコルベットの本』として最適なのは Randy Leffingwell著 "Corvette-America's Sports Car"です。現在、新本で普通に入手出来るコルベット本の中では内容の面白さ、写真の美しさなど考えるとこれが間違い無く最上の部類だと私は思います)。
 ところで今回訳したセブリングのレースの話、ややこしいのですが実はノーランド・アダムスの文章ではありません。コルベットでセブリングを走ったジョン・フィッチは1959年頃"Adventure on Wheels"という本を著したそうですが、この本のセブリングに関する部分をノーランド・アダムスが上の写真の本の中に大幅に引用しています。その部分を訳しました。

 いずれにしてもこのノーランド・アダムスの本はコルベットの歴史に興味ある人にとっては応えられない本です。興味を覚えた方はどうぞ原書をamazon.comなどでお求めになって是非続きをお読みください。



●ジョン・フィッチ、セブリングを語る
 その頃までには3月のセブリングにコルベットが出場するということ、そしてそのチームを指揮するのは私(ジョン・フィッチ)だという事が決まっていた。ついにデトロイトのスポーツカーがフロリダで行われる有名な12時間耐久レースにおいて世界の車たちを向こうに回して戦う事になったのだ。

 セブリングのレースに向けて準備を始めたごく初期の段階で二つの事実が明らかになった。ひとつはコルベットというのはもともとはスポーツ・ツーリングを目的として作られた車であって、本格的な耐久レースの厳しい要求を満たすようには作られていないという事、そして二つ目は我々にはコルベットをそのような要求を満たすような車に仕上げるだけの充分な時間はない、という事だった。それでも我々は1956年の2月18日から3月24日までの間にそれを成し遂げなければならなかったのだ。

 最初、我々にはたった1台のコルベットしかなかった。この車は1956年式のシャシーに1955年式のボディをやっつけで載せた哀れな捨て子同然の車で、まるで「これってホットロッド?」と思いたくなるような改造車だった。だが我々に与えられたテスト車はこれが全てだ。我々はすぐにテストを開始した。そしてこれからの5週間のうちに一体どれだけ沢山の解決しなければならない問題点が残っているかという事を私はただちに理解したのである。

 勿論セブリングのレースというものは耐久テストを志向しているものだと言える。午前10時から午後10時までの12時間、平均時速80マイル(約128km/h)超で走り切る事が出来ればレースに勝つか、もしくは上位数台の中に食い込む事が出来るに違い無い。12時間の間にこの一周5.2マイル(約8.3km/h)のコースを200周近く ―それは狭く黒いアスファルトとコンクリートの広い滑走路を組み合わせたコースの上を走る灼けつくような、狂おしい1,000マイル(約1,600km)である― を無事に走り切らなければならない。どの車も1周約4分の間に時速30マイルから150マイルまで、めまぐるしく変わるスピードで走らなければならないのだ。ハード・ブレーキングは1周の間に9回ある。ギアシフトは1周5マイルの間に27回以上だ。通常はこの12時間をたった二人のドライバーで闘う事になる。何年かこのレースをやってきて私は発見したのだが、このレースにおいて最後まで走り切る事が出来る車は全体の約50%だけである。それ以外の車はセブリングの厳しい試練の犠牲者となるのである。

 最初のテストで私はコルベットに大小の沢山の欠点を発見した。まず、コーナーでハンドルを切るとウィンカーレバーに手が当たった。スピードを出すと風の巻き込みが深刻だった。そして最も重要だったのはこの車のハンドリングはまるでカッチリとしておらず、挙動も予測のしにくいもので、決してコントローラブルなものではなかったという事である。レースにおいてサーキット上で戦う為にはこれらの特性はレーシングマシンとして必ず備えていなければならないものなのだが。

↑これはセブリングのコースをテスト走行するダントフ。全てはここから始まった。1955年の12月からデイトナ・ビーチにて速度記録を達成すべく準備万端整えていたダントフだったが肝心のビーチは天候不順でなかなかスピード・トライアルを行う事が出来なかった。余りのヒマさに業を煮やしたダントフは比較的近所のセブリングでコルベットをテストする事を思いついた。1956年1月第一週の事である。空港の滑走路を利用したコース、セブリングにおいてSCCAの主催で1950年から12時間耐久レースが行われていたが1955年までにはそれはフェラーリやジャガーやアストンマーチンなどが入り乱れる国際的な有名レースに育っていた。「そのコースでコルベットはどれくらいやれるだろうか」と、デイトナ用コルベットを持ち込んだダントフが試みにセブリングのコースを走ってみたところ、これが充分コンペティティブなタイムが出てしまったのである。この報告を受けたシボレーの親分、エド・コールは「そりゃホンマかいな!」と大いに喜んで舞い上がってしまい「よっしゃ、デイトナの次はセブリングだ。我がシボレーはセブリング12時間にコルベットでエントリーするのだ!決定だ!」と独断専行的に決めてしまったという。本番の3月24日まで2ヶ月なかった。驚いたのはアーカス・ダントフである。いくら競争力のあるタイムを出したからといって、それはほんの数周の事。12時間走り切るためにはまた別の準備や改造、改良が必要で、そしてそれを行うには時間が足りなさ過ぎるという事がレース経験の豊富なダントフには判っていたのである。ところが危機感を感じたダントフが上層部に「出来ません」「無理です」「あのコースは危険過ぎます」という事を余りに訴え続けた為「じゃーお前はその対策パーツを造る係になれ」と言われてダントフは一時的に配置転換までされてしまったという。事ここに至ってはダントフもあきらめるしかなく、せっせとセブリング用パーツを造ることになったらしい。
↑ジョン・クーパー・フィッチ(John Cooper Fitch)
1919年インディアナポリス生まれ。父親もレーサーでスタッツ・ベアーキャットなどでインディ・スピードウェイをぶっ飛ばしていたのだと言う。だがジョン・フィッチ自身の正式なレース・キャリアは戦後すぐにMG-TCをドライブしたレースからスタートしている模様である。そしてその後めきめきと頭角をあらわし、1950年代中盤にはアメリカン・ストックカーからF1まで幅広く乗りこなす世界のベスト・ドライバーの一人に数えられていたという。コルベットに乗る前も主なキャリアとしてはメルセデス300SLRのワークスドライバーだったり、1953年のル・マンにおいてブリッグス・カニンガムのC5Rという車に乗って3位に入賞したりしていた。1955年の12月、確たる理由は判らないがフィッチ自身の方から「レーサーとしてのコルベットに興味がある」とエド・コールに自薦の手紙を書いたのだと言う。「じゃあ君にお願いするか」とコールは二つ返事で承諾した。ひょっとしたら「あのフィッチがコルベットに乗りたいと言って来おったわ!」とコールは喜んだのかも知れない。まず1956年2月のデイトナ・ビーチにおけるドライビングが皮切り。続いて3月のセブリングにおいて「君にはチーム運営、開発、ドライバーをやって欲しいんだ」という依頼をする事になった。尚、生年から計算すると1956年のセブリング当時のフィッチは37歳くらいの筈だがそれにしてはこの写真は随分老けて見える。多分この写真はフィッチが相当ジイサマになってから何かの記念イベントなんかで撮影された写真だろう。
 早急に変更を加える必要があった。だがこれらのセブリング・レーサーに変更を加えるという事は同時に、シボレーが製造する全てのコルベットにおいても同じ変更を加える必要があるという事を意味していた。何を言っているのかというと、そもそもの我々の本来の任務は生産型コルベット、いわゆるストックのスポーツカーとしてのコルベットの名声を確立する事にあったのである。だからセブリングにおいて我々のチームのコルベットを戦闘力のあるものにするために行った作業は何であれ、それはシボレーの工場においても(RPO、レギュラー・プロダクション・オプションとして)生産車に反映されるものでなければならなかったのだ。そんな訳で、フロリダのあの混み合った掘立て小屋で我々が行った開発作業は素早くメーカーの方にも反映された。その結果、こんにちシボレーのラインから出てくるコルベットはセブリング以前のコルベットより実質上良い車になっているという事は言ってもいいだろうと思う。言わば「品種改良」とも言うべきものであった。

 本番のロードレースを想定した高負荷のテスト走行を行った最初の数日が過ぎた頃、予想したトラブルと予想もしなかったトラブルとが始まった。まずオイル漏れが起こった。次にエンジンマウントがゆるんだ。ファンベルトを飛ばしてしまったりもした。そしてハンドリングの問題と闘った。デフオイルの選択がまずかったのだが、それが判るまでにいくつかのデフをダメにすることになった。3月24日の本番はもうすぐそこに迫っているというのに我々はまだ「いかにしてコルベットを本来あるべき、きちんとしたタフな競技車両に変身させるか」という事をやっと学び始めたところに過ぎなかった。

 間もなく我々は実際にレースで走る4台のコルベットを受け取った。そのうち3台はプロダクション(ストック)のままで、4台目のみ307キュービック・インチ(約5028cc/ノーマルは265ci、4340cc)で別のクラスを戦う予定のモディファイド・コルベットだった。3台のストック・コルベットはクラスCに、排気量の大きいコルベットはクラスBにエントリーすることとなった。

(中略)

 ブレーキはフェードし、スロットルは固着し、リアのリーフスプリングの取り付け位置は、前側をより上方に、後側をより下方に取り付けるように変更された。これによってリアホイールの「跳ね」は抑えられたがそのかわりスライドしたりオーバーステアしたりするようになり、車は明らかに乗りにくくなった。仕方なくリアリーフの取り付け位置を元に戻すがこの時にリーフを1枚一番上に追加してみた。だがそれでも「跳ね」はなくならなかった。車はまだこのロードコースを走るのに充分安定しているとは言い難かった。

 ブレーキを踏むと車は左に引っ張られ、スロットルリンケージが外れたりした。ブレーキパーツはまだ届かない。デフは焼き切れた。オーバーヒートもした。タコメーターは無かった。そしてタイヤの「跳ね」は相変わらず酷かった。

 3月の1日頃になると、他メーカーのエントリー車がぼちぼちセブリングに到着し始めた。我々がガレージでごく初歩的な問題と格闘している間、コースを走るDタイプ・ジャガー(Jaguar D)の鋭い排気音が聞こえて来た。事態は明らかだった。コルベットはこのレースという分野では全くの新参者であり、ジャガーはベテランだった。コルベットにはレースで走る為の経験と言うものが全く不足していたが、ジャガーや他の多くの常連たちには何年にもわたってエキスパートたちによって築き上げられたレース活動の積み重ねがあった。だから例えばジャガーDタイプは以前、2速ギアが抜けてしまうというトラブルに見舞われた事があったのだがこれが起こった時、彼らにはそれが基本的な設計上のトラブルではなくパーツ不良の問題だという事がすぐにわかった。しかしながら我々がコルベットのブレイクダウンテストを行う場合には、設計が悪いのか、パーツが不良なのか、オイルが悪いのか、何か取り付けミスなどをしているのか‥‥、何が悪いのかさっぱりわからなかったのである。我々のコルベットは水の中に落ちてから泳ぎ方を覚えようともがいているようなものだった。

 我々は最初に与えられたテスト車においてベストなセッティングを見い出すべく毎日格闘していた。我々はこのボロいテスト車において施したモディファイが良い結果をもたらした場合、すぐさま同じモディファイをレース用の4台のコルベットにも適用した。そしてレース用コルベットにこうした変更を加える度に我々はそれをデトロイトに報告しなければならなかった。セブリングのレースを戦うために我々が行ったいかなるモディファイもコルベットのカタログで特別オプションとして注文可能なものでなければならなかったからだ。さもなければ我々は「プロダクション・スポーツ・クラス」で戦うことが出来なかったのである。マグネシウム・ホイール、スペシャル・ブレーキ・ドラム、ヘビーデューティ・スゥエイバー、大型ガソリンタンク、短いステアリング・コラム、スペシャル・ショック、これらは全てシボレーのエンジニアリング部門によって承認された上で、同じ様に自分のコルベットをセットアップしたいと思うユーザーが誰でも注文可能な状態になっている必要があった。この報告のためのセブリングとデトロイトの間の電話料金はとんでもないものとなった!

 レイ・クローフォード(Ray Crawford)がカーチス(Kurtis)のエントリーを取り止めた。これでクラスBへのエントリーは我々の307コルベットだけになった。

 その頃には我々のテストはまさに狂気じみたものになっており、我々はありとあらゆるパーツを試しまくった。我々が必要だと思うパーツの全てをシボレーのエンジニアリング部門は可能な限り供給してくれた。それでも毎日のようにあのパーツ、このパーツ、と緊急スクランブルをかけることになったし、スペアエンジンをデトロイトからフロリダまで航空便で送ってもらった事さえあった。だが我々はある意味では幸運であったとも言える。というのも(ジャガーなど)外国産の競争相手たちと違って我々は地元のシボレーのディーラーに電話をして必要なパーツの多くを手に入れる事が出来たからである。事実、スケジュール最後の殺人的な数日間には我々はそのディーラーから2名のメカニックを借り出す事までした。もしフェラーリがメカニックを必要とした場合、彼らはメカニックをイタリアから呼ばなければならないだろう!

 サンダーバードがセブリング出場を取り止めるかも知れないという話を聞いたのはその頃の事だ。

↑これがコルベットに割り当てられたセブリングのガレージ、というか物置き小屋。シボレーからエントリーしたコルベットはここで仕上げられた。見えにくいかも知れないが写真右手前に実走開発テスト用のシャシー56年式、ボディ55年式というコルベットのテール部分が写っている。このホットロッド風改造車で実走テストを重ね、良い結果の出た部品、改造を他のレース出場用の4台に適用する、という開発方法が取られたと言う。尚、本番用の4台のエンジンは実は全てスモーキー・ユニックの "Best Damn Garage in Town" に運ばれ、ユニック自身の手によってチューニングおよび最終仕上げがなされたのだと言う。
↑ずらりと一列に並んでスタートを待つレーサーたち。写真の一番左、列の先頭にゼッケン1のコルベットがいるがこれは現在で言うポールポジションではなく、実は単に「排気量順」に並べられただけであるというに過ぎない。当時のセブリングでは出場クラスは主に排気量によって振り分けられており、原則として排気量の大きい順にスタートラインに並べられる決まりだったそうである。確かに排気量イコール加速力、と考えればこれは合理的かも知れない。記録を調べてみるとこの方式は1963年、ル・マン式スタートを廃止するまで続いたようである。1964年からは現在のレースの様に予選を行ってその速い順にスタート位置に並ぶ方式に変更されたらしく、この年から急にポールポジション(First Qualifier)という言葉が出てくる。ちなみに写真の左から2台目のゼッケン2はフェラーリ375プラス(4954cc)。
↑スタートの合図とともにこのように車に駆け寄ってスタートするのだった。
↑そしてこれがスタート直後。フィッチの乗るゼッケン1のコルベットが首尾良くトップで好スタート。間にゼッケン8、マイク・ホーソーンのジャガーを挟みつつも(ゼッケン1のコルベットの陰にいる)それにゼッケン5のコルベットが続き、さらにその後ろにも他のコルベットが続く。実に美しい風景である。
↑レースの最中、滑走路ストレートにてオースチン・ヒーレー100をブチ抜くゼッケン6。実に美しい風景である。ちなみにこの写真ではドライバーが右腕を高く挙げてVサインの様なものを出している。あと2周でピットインする、というサインだろうか?それとも大丈夫、快調だ、と言っているのだろうか?
・3月16日
 最初のテストカーは正確なテストをするには疲弊し過ぎてしまい、ついには壊れてしまった。これはレース前の最後の数日を走る事が出来ないという事を意味している。最悪の事態だ。今日は本来ならばピットストップの練習やライト類のテストをするつもりだったのだ。だが車が動かないのではテストは不可能である。4台のレースカーはあるのだが4台とも現時点ではまだオプションの色々なパーツを取り付けて車そのものを組み立てている段階だ。もし作業がレースに間に合ったとしてもピットストップの練習すら出来ないのである。

・3月17日
 残すところあと1週間である。暑い日(薄い空気)のキャブレターのセッティングテストで5周ほど走る。濃くした後で今度は薄くして走ってみるがどちらも良くない。3分53秒で周回出来たラップがあったがエンジンが止まりがちであった。キャブを元に戻す。滑走路ストレートを半分ほど走ったところで焼ける匂いがしたかと思うと車はスローダウンしてエンジンがブローした。ピストンが割れてしまったようだ。エンジンを交換しなければならない。(訳者註:前日に車が壊れて走れない、と言いながら何故翌日にエンジンテストが出来たのかは不明です。一応原文にそう書いてあるのでそのまま訳しました。原文自体が抜粋文なので略された部分にそのへんの事情が書いてあったんだろうと思います)

 レース直前の数日間は殆どキャブレターのトラブルとエンジンのチューニングに費やされた。もはや大きな変更を加えるには遅すぎたし、変更を加えたとしてもプロダクションモデルとして認定される例の作業をする時間もなかった。サイは投げられたのである。我々は今ある姿のままで走るだけだ。

 我々の車は次の通り。「クラスB」を走る、速いが耐久テストのされていないゼッケン1番。そして「クラスC」を走るそれぞれに色々とオプションパーツの取り付けられたストックエンジンのゼッケン5、6、7の車である。最後のレース戦略を決める時が来た。ドリルの唸る音や溶接機の火花の散る音が鳴り響くガレージの中で私はペンをとって自分の考えをまとめ始めた。

 まず、我々は4台のうち少なくとも1台には「スピード・ショー」を演じさせたいと思っていた。それにはプロトタイプのゼッケン1の車がベストである。私はこの車はレースの最初からハード・ドライビングに徹する事、と決めた。勿論壊れる危険性はある。だがこれによって我々シボレーのサポーターたちにコルベットについてのエキサイティングな話題を提供出来るだろう。ウォルト・ハンスゲン(Walt Hansgen)と私ジョン・フィッチがその役目をになおう。ラップタイムは3分45秒での周回を目標とする(これは12時間で187ラップに相当する。1955年時点においては充分勝てる周回数である)。

 ゼッケン5、6、7の3台は外観こそは良く似ているが、実際にはそれぞれキャラクターが微妙に違っていた。3台の中で最速なのはハイパフォーマンスのダントフカムと4.11のデフが装備されたゼッケン5の車である。ギアを3速とも全部使ってエンジンを6000回転まで使用した場合、3分50秒での周回が可能だった。最後まで走り切る事が出来ればこれは12時間で184周する事が可能である。

 ゼッケン6と7の車は1速を使わずに走らせることにする。その場合でもそれぞれ4分00秒と3分55秒での周回が可能だった(1速を使わないのはこの車の最大の弱点であるドライブトレインへの負担を軽減するためである)。そしてレースが半分終わった頃、もしゼッケン5の車のギアがまだ3速とも全部使えているならその時点でゼッケン6と7の車も1速ギアを使って走っても良い事にする。運が良ければこの2台も12時間で180周回をこなす事ができるかも知れない(この2台のカム設定、レッドゾーンの設定は180周分の距離を前提に決められていた)。

 これが我々の立てたプランである。我々は1台の速いフロントランナー(プロトタイプの307、ゼッケン1)と、1台の速いストックカー(ゼッケン5)とそして長距離走行を前提とした2台の安全確実な車(ゼッケン6と7)を用意したのである。

 4台のセブリング・コルベットはゆっくりと熟成された。最終的にはゼッケン1は307ciエンジンでプロダクション・クラスB。これにはドイツ製のZFのトランスミッションがつけられていた。

 他の3台、ゼッケン5、6、7は全てシボレー製の3速ミッションにストックの283ciエンジンが載っていた。3台の中で最速なのはダントフカムと4.11のデフを装備したゼッケン5だった。

 続いて我々はメカニック以外の全ドライバーとピット要員を集めて最初で最後のミーティング行った(メカニックたちはレースの前のその晩もまだ車を造り続けていたのである!)。私がチェックリストを読み上げる間、その小さなホテルのダイニングルームの空気はまるで軍隊の作戦会議のような緊張感に包まれていた。ピットサインについて、車のハンドリングが変化するであろう事について、サーキットのコーナーにたまってくるゴムのかすやオイルの影響について、我々の車の想像される弱点と有利な点、そしてその他多くの様々な想定され得る事態について綿密に打ち合わせをした。このレースでコルベットをドライブするように依頼されたドライバーたちは誰もこの新しいコルベットについてまだ多くを知らされていなかった。だから彼らは与えられる情報は何でも喜んで聞いた。彼らは自分達がヨーロッパのプロフェッショナル達とともにコース上にとどまってレースを戦い続ける事が必要だという事を理解していた。

 最後の準備については今ひとつ明解に思い出せないのだが、車両検査において主催者側が全てのドライバーに「アイデンティフィケーション・ライト」をつけるように要請してきたので我々は最後の最後でそれをボディに貼りつけた(訳者註:確かに写真を見るとこの年のシボレーからエントリーされた4台のコルベットには全て右フェンダーあたりに用途不明のライトがついています。多分、似た格好の車なので夜間にラップ計測などで誤認しないようにライトの色で判別する、というような用途があったのだろうと考えられます)。それぞれの車に積まなければならないスペアパーツ、ツールのリストをチェックした(セブリングにおいてはレース中に行われる修理やパーツ交換は全て、実際にその車に搭載してあるものを使って行われなければならないというルールだったのである)。最後の最後で私は万一コルベットの頑丈なファイバーボディを切断する必要が生じた時のためにキーホール・ソー(訳者註:ノコギリの一種)も積んでおかなければならないという事を思い出した。

 ついに、どうにかこうにか、準備は完了した。出来ることは全てやった。やってない事はやらなかったのではなく、やることが出来なかったのだ。いずれにしてもリハーサルは終了したのだ。

↑これはシカゴからやってきた謎の二人組、ドン・デイビス(Don Davis)とボブ・ガッツ(Bob Gatz)のドライブで総合23位完走を果たしたゼッケン3のコルベット。この二人はシボレーがバックアップした白に青ストライプの4台のコルベットとは全く無関係に自分達の意志でプライベートでいきなりエントリーして来たのだと言う。しかも驚いた事にこの二人は1000マイル以上も離れたシカゴから「じゃーセブリングに行きますか」と、このコルベットでブロロローッと自走してセブリングまではるばるやって来たのだという。そしてその場でゼッケン貼ったりヘッドライトにテーピングするなどの作業をして「じゃーいっちょうブチかましてやりますか」とそのままレースに出場、驚くべき事に大過なく12時間を無事に走り切った。それで「じゃーシカゴに帰りますか」とまたその車に乗ってシカゴまでブロロローッと走って帰って行ったのだという。
 車を見るとウィンドシールドが撤去してある事、ガス給油口のフタが取り去ってある事、エンジンフードを少し開けてなおかつボンピン?状のもので半固定してあるように見える事などに気付く。これらの事からはこの二人組がある種の「レース慣れ」をしている様子が伺えるが、ただし中身はまずストックのままのコルベットではないか。プライベーターが1956年式のピカピカの新車のコルベットを1956年3月のレースにエントリーする場合、ろくなモディファイをする時間があったとは思えないからである。1956年式コルベットのデリバリーは例外的に遅かったようでもあるので尚更である。「なあデイトナ・ビーチじゃダントフはウィンドシールド取っぱらってたよなあ」「うんそうだな、あれを真似しよう。軽量化ってやつだ」というレベルの話だった可能性は否定出来ない。
 この時代はアメリカ全土でホットロッド熱、レース熱が高まっていたというからこの二人組もそんなムーブメントの中でのシカゴ・エリアの腕自慢、と言ったところではなかったかと想像する。
 この本の著者のノーランド・アダムスも「この二人の事は調べたが良く判らなかった」と言っているのでもう多分誰にも本当のところは判らないだろう。この二人の名はその後二度と公式レースの歴史に現れる事はなかったがコルベットファンたるもの、「ドンとボブの56'Vette」の事は覚えておきたい。
↑レースがスタートして12時間後の夜の10時、レースは終了した。写真はレース完走後、ピットに戻って来たゼッケン6のコルベット。左のメカは拍手をしており、右のメカは気遣うようにドライバーの顔を覗き込んでいる。ドライバーは疲労困憊したものか、あるいは感極まったものかうなだれているのが印象的である。
↑これはセブリング12時間終了後、雑誌に出されたコルベットの広告。レース本番中?の緊迫感あふれる写真をドーンと大きく扱って右肩に「THE REAL McCOY(本物)」とあるのが泣かせます。本文には「こんにち、アメリカで造られた最もすぐれた車」なんて書いてある。この広告は相当インパクトがあったようであちこちのコルベット関係の本で同じ写真を目にします。1956年1月/2月のデイトナ・ビーチ・フライング・マイルでの記録樹立に引き続く3月のセブリングにおけるクラス勝利。これがコルベットが第一級のスポーツカーとして人々に認められた原点です。
 レースの前夜には充分な睡眠がとれなかったにもかかわらず翌朝、我々は全員早くに起きてきて、最も早くガレージの中から車をスタートラインに並べたグループの中にいた。空港の滑走路でもあるコンクリートのスタートラインに並べられたコルベットたちはまるで「レーシング・スポーツカー」のように見えた。私は誇らしかった。コルベットたちはみな白いボディに青いストライプが塗られ、スタートラインに並んでいる他の殆どの車たちよりも少しばかり大柄だった。

 ブルーのユニフォームを着用したドライバーたち、白いユニフォームを着たメカニックたち、そして恰好よく「盛装」したコルベットたちを見た観客たちは、このコルベット・チャレンジに費やされた、のべ何千時間にもわたる準備がどんなに狂気じみたものであったかについては知りようもなかっただろうし、そして、それでも時間が足りなくてやり残した重要な事が沢山あるという事も知りはしなかっただろう。

 観客達は我々が実はピットストップの練習がただの1回も出来ていないという事も、ピットストップで30分ロスする事で車の完走が危機的状況に陥るという事も知らなかっただろうし、我々のメカニックたちが無表情で動きが思慮深げに見えるのもそれが実は確固たる自信によるものではなくただ単に疲労困ぱいしているせいだという事なども想像すら出来なかった事だろう。

 レース前のテスト期間中、ガレージにおける嵐の様な作業の時にいつも我々の間近にいて、その間にコルベットがどれだけ良くなったかを充分知っているひとりのシボレーのトップ・エンジニアがいた。その彼がスタートの直前、ピットウォールによりかかって言った。

「ジョン、もしオレたちが今ここで全てを中止してコルベットをレースで走らせなかったとしても、それでも全ての努力が正しかったという事はオレたちには充分に判っているよな」

私にとってはこの言葉を聞いた時が全プロジェクトを通して最高の瞬間だった。

 レースのスタート前の数分間は非常に緊張感のみなぎるものである。号砲に弾はこめられてはいるが、まだ国歌が終わるのと重々しい祈祷の時間が終わるのを待たなければならない。最後にはドライバーはひとりぽつんと残される。ルマンで行われているスタート方式(それ自身小さなレースとも言えるが)をするためである。

 その時私は突然気持ちが軽くなり、そしてこれまでのレースにおいてもそうであったのと同様、ある種の喜びを少しばかり感じていた。私は60人からいるドライバーの先頭位置、地面にマーキングしてあるところに立っていた。隣のフェラーリのドライバーと適当なジョークのやりとりをしつつもヘルメットのせいで聴覚は少し遠い感じとなり、ゴーグルで視界は狭まり、私は既に他者を寄せつけない存在となっていた。私はこれまでのマネージャーからドライバーにその役割を変えつつあり、そしてそれを楽しんでいた。これまで続いた悩みだったが、それも今は車を速く、そしてトラブルを起こさぬように走らせるための責任感に形を変えた。

 スタート・フラッグが振られると、我々は滑走路を走って横切り車に殺到し、ドアをこじ開け、車に飛び込んでエンジンをかける。そして排気音と乱暴なギアシフトによるタイヤの悲鳴をまき散らしながら、あたり一面の青い煙りの中、メインストレートを走り出すのである。

 1速のギアはハーフスロットルで、まだ冷えているエンジンを回し過ぎないように、と自分に言い聞かせながらスタートしたのだがそれでも私は集団の先頭に出る事になった。すぐ後ろにゼッケン5のコルベットがいるのがミラーで確認出来る。ゼッケン6と7のコルベットもそんなに後ろではない。まずまずのいいスタートがきれた。

 ここで私は、信じられない事だが、レース用に組み上げられて以来一度も運転したことのないこの車のドライブの仕方から学ばなければならなかった。テストカーの経験から私はこの車が示すであろう挙動については判っていたものの、同時にレースカーというのは個々に違いがあるものだという事も知っていたからだ。

 だが満タンのガソリン、ツールやパーツで重かったにもかかわらず、私が滑走路部分から黒いアスファルト部分に向かって大きく向きを変えてシフトダウンした時、車は頼もしい程安定していた。前年のセブリングとルマンの勝者であるマイク・ホーソーン(Mike Hawthorn)のDタイプ・ジャガーが私のインに滑り込んで来た。マイクの決然とした様子を見た私は彼のあとをついていくことにした。

 次はシケインへのブレーキングである。盛土のされたシケインを素早く左-右へと切り返し、そして再び左にハンドルを切る。動作は一度でぴしりと決めなければならず、最後の左でふくらみ過ぎないように注意しなければならない場所なのだが、私のゼッケン1のコルベットはまるで何度もそこを走った事があるかのように振る舞った!

 次はより高速の左カーブ。そこで路面の小さなバンプの衝撃を感じながら次の大きな右カーブにさしかかる。アプローチのスピードは時速100マイル(160km/h)。続いて小屋の横を通る短いストレートを過ぎると次はこのサーキットで一番スピードの落ちるヘアピン・カーブに向けてのハードブレーキングである。続いて道の両端にある松の木がつくるトンネルに向かって、そして倉庫のあるストレートに向かってアクセルを全開にする。このとき、路面のバンプが車輪に負担をかけるのを感じながらも、一瞬ふっと一息をつく事が出来る。次はジグザグコーナーに向かってハードブレーキングでチャタリングしながら下って行く。そこを過ぎるとまた再び滑走路のコンクリートの上に戻る事になる。私が次のストレートに向けての広いコーナーにアプローチしている時にもう一台のジャガーとアストンマーチンに乗ったスターリング・モス(Stirling Moss)が私の横をすり抜けて行った。我々のコルベットがベテラン・チームの車に乗る経験豊かなドライバーたちの多くを驚かしめたという事実には、もはや疑いの余地は無かった。ほぼ1マイルの長さのストレート(第一ストレート)に飛び出すと、我々のエンジンは次のブレーキングで一気に何百馬力ものパワーをそぎ落とすその地点まで5000rpmで快く回り続ける。最後の大きなUターンカーブを過ぎると次にピット・ストレート(メイン・ストレート)に出る。最初の周回はうまく行った。

 だが2周目に入ると様子が違って来た。この周回中に私、ジョン・フィッチは大いに驚かされる事になる。排気量307ciのV8エンジンとZFトランスミッションに挟まれたクラッチに問題があった。温度が上がるとそれは歪んで滑りはじめるのである。もしこの車をテストする充分な時間さえあればこんな問題は解決出来ていた事であろうに。

 第一ストレートでエンジン回転数の上がり方が速い。スロットルをじわーっと少し戻すとタコメーターはすぐ300回転ほどストンと落ちる。まだ2周目だというのにクラッチが滑っているのだ!このまま12時間ヨタヨタ走り続けろというのか?或いはこの早い段階でリタイアしろというのか?この二つの選択は余りに切なすぎる。暫くの間、クラッチはいかなるスピードにおいても、どのギアにおいてもランダムに滑っていた。私はワラをもつかむ気持ちで、以前、1953年のル・マンで使ったのと同じ方法を試してみる事に決めた。トップギアに入れた状態でエンジンを高回転にキープして、コクピットがオイルとクラッチライニングの焼ける悪臭と煙に満たされるまで、故意にクラッチを滑らせたのである。次は車に最低限走るに足る程度の軽い負荷を与えて、クラッチが充分に冷えるまで一周にわたってコルベットを優しく扱った。そして不安を感じながらそっとスロットルを踏んでみる。すると最大トルクを発生するあたりの400回転以外はクラッチがうまく繋がるようになった事がわかった。まだ少しばかり運が残っていたようだ。この期に及んでこれ以上望むことなどがあろうか?運は悪かったかも知れないが答えはひとつ、とにかくこのまま走り続けるしか無いのである。

 チームメイトのゼッケン5のコルベットがUターンカーブのところのコース外にいた。ドライバーはタイヤの外れてしまったホイールアーチのところにもたれてうなだれている。アクシデントだろうか?リアアクスルがもうダメなんだろうか?良く判らないが明らかな事はひとつ。ゼッケン5のコルベットはコースから姿を消した。

 その1時間ほど後、第一ストレートに視界がかき消される程のもうもうたる白煙が上がっていた。この種の白煙はエンジンブローによるものだ。Uターンカーブにさしかかるとそこにゼッケン7のコルベットが今やスポーツカーとは思えない姿で、排気管からもうもうと白煙を上げて走っているのが見えた。12時間のうちのまだ2時間も経過していないというのに既に我々はチームの半分を失った。こんなに早く試練が訪れる事になろうとは予想もしていなかった。この調子では我々は高い代償を支払う事になる。コルベットは世界で一番大きい会社の名前を冠していて多くの株主たちに対しても責任があるのだ。投資家たちの中にはこれを問題視するものもいるだろう。

 チーム内でのゼッケン1のコルベットの位置付けは変わった。ゼッケン1は今やこのレースを何が何でもフィニッシュしたいという我々の希望を担う二台のうちの一台となったのだ。よって我がチーム最高のスプリンターであったゼッケン1のコルベットは突然、チーム全員の期待を一身に受ける長距離ランナーにその役割を変えたのである。2台がリタイアした後、私はゼッケン1のコルベットをまるで籠の中の生卵を扱うかのようにドライブすることとなった。

 2時間10分連続で走行して交代のためにピットに入った時、ピットは沈鬱なムードに包まれていた。ガスが給油され、各部チェックが終わった後、車はウォルト・ハンスゲン(Walt Hansgen)のドライブで再びレース・コースに出て行った。アシスタント・チーム・マネージャーのデイブ・アレン(Dave Allen)が近寄ってきて「ゼッケン6のコルベットのミッションが終わりかけてて今あいつは3速だけでコース上をヨタヨタ走ってるんだ」と告げた。2台がリタイアして、残った2台もグロッギーだった。今回のシボレーの試みは大失敗の内に終わりを告げるのだろうか。そうなりそうにも思えた。私にはセブリングにおける失敗がシボレーからレース、スポーツカーに対する興味を永遠に奪ってしまうだろうという事が判っていた。だがそれは我々のこれまでの努力を思うと何とも悲しむべき結末ではないか。

 長い一日だ。終わる事のない自動車たちの咆哮が午後も鳴り響き続ける。最初にスタートした60台は徐々に減って来ていた。それでも二台のコルベットは粘り強くコース上に留まっていた。一台は滑るクラッチで、もう一台はほとんど役に立たないようなトランスミッションで。幸いな事に3速のトップギアしか使えないコルベットには低中速の強いカムが載っていたのでまるで蒸気エンジンみたいに力強くスローコーナーを走り抜ける事が出来た。

 二台とも我々が想定していたよりもずっと遅いスピードで走っていた。だが走っていた事は走っていたのである。何台かの有名で高価なレーシングカーが既に戦列を去ったと聞いたりする事もいくらかは慰めとなった。

 午後遅くには我々は自分達には別のチャンスがあるのではないかということに気付き始めていた。もしゼッケン1のコルベットがレースをフィニッシュしたらそれはクラス優勝ということになる。ただし、我々がそのクラス唯一の出走車ではあったにしても、これはレースだ。我々は石橋を叩いて渡るようなスピードにスローダウンしてまでフィニッシュしたいとは考えていなかった。仕事は仕事、そしてスポーツもまたスポーツなのである(訳者註:原文 "Business is business, but sport is also sport" 結果如何ににかかわらずスポーツに出場したんならベストを尽くすべきだという事をジョンは言っているのだと思います)。我々は車にとって可能な範囲と思えるペースで出来る限り速く走り続けた。また、もしゼッケン6のコルベットがフィニッシュしたらプロダクション・スポーツカー・クラスの優勝という事になる。夜のとばりがレース・コースを覆う頃には、オレたちにはまだまだチャンスがあるという感覚が我々のピットに充満してきていた。

 我々は毎周時計を見つめ、ゼッケン1とゼッケン6のコルベットが我々の前を周回するのを待ち続けた。この頃までにはこの2台の個性というものがはっきりして来ており、我々は夜間でもこの2台をそのヘッドライトと排気音ではっきりと確認する事が出来た。

 このシチュエーションは一種のパラドックスだと言える。結局、レースの早い時期にトラブルが出た為に逆にそれ以上車を傷める事がなかったのだ。もしゼッケン1のコルベットのクラッチがスリップしなかったら逆にどこかドライブトレーンの別のところを傷めていたかも知れなかった。クラッチのスリップは今や安全弁として作用していた。同じくゼッケン6番のコルベットにおいても3速しか使えなかったためそれ以上エンジンやドライブトレーンを傷める事がなかったのだ。この数時間において我々のトラブルは今や祝福されるべきものへと変わった。これは奇妙な幸運である。だが我々はその幸運を見逃さなかった。

 一台、そしてまた一台、他チームの車がよろよろとピットに入ってきて次々にリタイアしている。そして午後8時、マイク・ホーソーンのDタイプ・ジャガーがブレーキトラブルで戦列を去った。午後9時、残りあと1時間というところで我々コルベットのピットでは「希望」だったものが大いなる喜びに変わりつつあった。ゼッケン1のコルベットは今やこのレースで総合9位につけていた。私、ジョン・フィッチは既に最後の走行を終えており、現在はウォルト・ハングセンが相当なラップタイムで最後の周回を重ねていた。私はピットウォールにもたれかかり、これは奇跡が起こったという事なんだろうかといぶかしく思っていた。

 午後10時、長い試練の時が終わった。レースがIわった事を示す花火(空砲)が打ち上げられる。その時点でコース上を走っているドライバーは最後にフィニッシュラインを通過してレースを走り終える事になる。そしてある意味、セブリングを走り終えた者はみな勝者であると言える。

 ほんの2、3週間前には全くの夢物語のように思えた事が、そしてこのレースの最初の数時間には不可能にも思えた事が今や現実のものとなった!長い試練の中を走り抜けて、汚れ、あちこち壊れた2台のコルベットが夜の闇の中からピットの中に咆哮とともに駆け込んで来た。そして彼らはまるでこのレースの勝利者であるかのように遇されたのである。実際のところその時点では我々がこのレースでどれ程のものを勝ち取ったかということには殆ど無頓着だったし、そんな事は問題では無かった。4台のうちの2台がレースを走り終えた、それで充分だったのである。

 後ほど、我々は公式結果を受け取った。

・クラスB優勝:コルベット
・プロダクション・スポーツカークラス優勝:コルベット
・チーム優勝:コルベット
 ゼッケン1は総合6位でフィニッシュした。ゼッケン6は総合15位でフィニッシュした。12時間後、レースをフィニッシュ出来たのは出走60台のうち僅か24台であった。

 そう、レースは終わった。多くの意味においてそれは滅茶苦茶な、破天荒な計画でもあった。だがしかし、ものごとのスタートはどこかで切られなければならないのだ。私はかつて、ある年輩のG.I.が私に語った「例え間違っててもいい、まず行動を起こすんだ」という言葉を思い出していた。

 かくしてシボレーは何事かを成し遂げた。かつてアメリカの自動車メーカーがやろうともしなかった事をだ。我々はセブリングという最大級のレースの世界に突然足を踏み入れ、そして最初のトライで三つの勝利をもぎとって来た。それは最初の(総合優勝するという)希望に比べれば控えめなものだったが、これだけのトラブルを経験した事を考えれば望外のものであったと言える。

(特別ふろく)
1956年3月24日 セブリング12時間耐久レースの決勝結果(完走車のみ)
決勝順位ドライバーゼッケン車種排気量エントラントクラス周回数
1Juan Fangio/Eugenio Castellotti17Ferrari 860 Monza3422Scuderia Ferrari, ItalyC-1194
2Luigi Musso/Harry Schell18Ferrari 860 Monza3422Scuderia Ferrari, ItalyC-2192
3Bob Sweikert/Jack Ensley14Jaguar D3442Jack Ensley, Indianapolis, Ind.C-3188
4Roy Salvadori/Carroll Shelby27Aston Martin DB3S2992David Brown & Sons, Ltd., EnglandD-1187
5Piero Taruffi/Jean Behra24Maserati 300S2992Offcine Alfieri Maserati Co., ItalyD-2186
6Hans Herrmann/Wolfgang Von TRIPS41Porsche 550 Spyder1496Porsche KG, GermanyF-1182
7Jack McAfee/Pete Lovely43Porsche 550 Spyder1496John Edgar Enterprises, Hollywood, Calif.F-2179
8Alfonso Mena/Santiago Gonzales16Jaguar D3442Alfonso Gomez Mena, CubaC-4176
9John Fitch/Walt Hansgen1Chevrolet Corvette5180Raceway Enterprises, Dundee, Ill.B-1176
10Porfirio Rubirosa/Jim Pauley33Ferrari 500 Mondial1996Porfirio Rubirosa, Dom. Rep.E-1172
11Phil Stiles/George Huntoon31Austin-Healey 100S2660Ship & Shore Motors, Palm Beach, Fla.D-3168
12Briggs Cunningham/J.G. Bennett11Jaguar D3442Briggs Cunningham, West Palm Beach, Fla.C-5168
13Bob Ballinger/Phil Stewart39Arnolt-Bristol1971S.H. Arnolt Co., Warsaw, Ind.E-2158
14George Marshall/Hubert Brundage66Porsche 550 Spyder1496Porsche KG, GermanyF-3158
15Max Goldman/Ray Crawford6Chevrolet Corvette4346Raceway Enterprises, Dundee, Ill.C-6157
16Paul Armagnac/G. Mercader58Deutsch-Bonnet HBR5745Ecurie Jeudy Bonnet, FranceH-1155
17Ted Boynton/J.E. Peteson40Arnolt-Bristol1971S.H. Arnolt Co., Warsaw, Ind.E-3154
18J.H. Dressel/BIll Woodbury37AC Ace1991J.H. Dressel, Arlington, Va.E-4154
19William Kinchloe/Steve Spitler50MGA1489Hambro Automotive Co., N.Y.F-4151
20Dave Ash/Gus Ehrman49MGA1489Hambro Automotive Co., N.Y.F-5151
21Leech Cracaft/Red Byron55Cooper- T-39 Climax1098Cooper Car Co., EnglandG-1147
22Fred Allen/John Van Driel51MGA1489Hambro Automotive Co., N.Y.F-5151
23Don Davis/Bob Gatz3Chevrolet Corvette4346Carl Beuhler III, U.S.A.C-7136
24M.R.J. Wyllie/Peggy Wyllie54Lotus Mk IX1097Dr. MR.J. Wyllie, Allison Park, Pa.G-299

リタイヤ組はめんどくさいのでカットしました。それにしてもざっと見てもファン・ファンジオ、ピエロ・タルフィ、フィル・ヒル(リタイヤ)、スターリング・モス(リタイヤ)、コーリン・チャップマン(DNS)など錚々たる一流ドライバーたちがゴロゴロしているのに驚かされます。またエントラントなんかを見てもフェラーリ、マセラーティ、アストン・マーチン、ポルシェなどは完全ワークス参加です。これらの事からセブリングというのがいかに大きな、マジなレースであったかという事が判ります(観客数は25,754人と発表されています)。これらのレース慣れした連中がひしめくレースにコルベットが挑戦したという事は当時の基準では普通に考えて無謀に近いものがあったのではないでしょうか。

28 July 2001