ビル・ミッチェルはかく語りき その2

 ここではミッチェルが問わず語り的にあれこれ喋っている独白を訳しました。前のページと重複する部分もありますがこれはこれで面白いと私は思いました。また、後半、ミッチェル自身がコルベットの未来像を予言していますがそれが大きく外れているあたりはご愛嬌です。
出典書:
"Corvette-A Piece of the Action"
The Corvette Saga From the Inside
by the Editors of Automobile Quarterly
with William L. Mitchell and Allan Girdler

published by Princeton nPublishing Inc.
この本は1978年に出版された"A Piece of the Action"にC3最後期の3年とC4の初期型の内容を加えて1984年頃に出された第二版です。全ページカラーのなかなか豪華な本で、70年代以前の写真はやや発色が鮮やかでないように感じるものの眺めるだけの写真集としてもコルベット好きには充分価値があると思います。私もまだ本文を全部読んだ訳ではありませんが、面白いと思うのは本文の流れそのものはおおむねコルベットの歴史をなぞりながらも各時代の執筆を担当したライターのひとりひとりがその時代時代で自分がコルベットに関わった個人的体験を書いているという点です。これは普通のコルベットの歴史書?には見られないアプローチです。執筆者のひとりひとりはカーデザイナーであったり、レーサーであったり、コルベットクラブのメンバーであったり、レースオフィシャルだったりするらしいのですが、それがかえって当事者しかわからない「その時代の空気」みたいなものを伝えているように感じました。この本は出版年度の古さ、内容からいって再版、あるいは増補改訂の可能性は極めて少ないと思われます。在庫があるうちの購入をお勧めします。興味を覚えた方はどうぞ原書をamazon.comなどでお求めになって是非続きをお読みください。

内側から見たコルベット物語

ウィリアム・ミッチェルがデトロイトでデザイナーである事について、コルベットの来歴について、その存続について語る

 あなたは鮫とハタ科の魚との違いを御存知だろうか?そのどちらも海中で見る事が出来る。鮫は鋭敏で獰猛で、躍動的であり、貪欲だが、流麗な形をした生き物だ。一方、肥った大きなハタは満足してそこらにじっとしているだけだ。それはまるでジョン・バリーモア(John Barrymore:誰?)とチャーチルのシルエットを比べるようなものであり、あるいはグレイハウンドとブルドッグ、スポーツカーとセダンとを比べるようなものであるとも言える。

 あなたは(デザイナーにとって)スポーツカーで最高に良いところが何かを御存知だろうか?それはスポーツカーをデザインしている時、我々はその車すべてを自分のコントロール下におくことができる、という事である。これはファミリーセダンでは出来ない事であり、これはなかなかに感動的な事だ。

 私はあるいはデザイナーにならなかったかも知れなかった。私の父親はペンシルバニアの小さな町のビュイックのディーラーだった。父はスタッツ(Stutz)やマーサー(Mercer)を買ってはパワーアップしたりカスタマイズしたりしていたものだった。彼は永年に亘って4台もの違うベアキャット(訳者註:スタッツの車名)を持っていた。私は多分今頃、自分のではなく他人の車をパワーアップするようなビュイックのディーラーになっていた事だろう、もしコリエー兄弟に出会わなければ。


ライレーに乗るマイルズ・コリエー
  1927年、私が15歳の時、私はニューヨークシティのバロン・コリエー広告代理店に美術部門のオフィスボーイとしてパートタイムの職を得た。私は夏休みの間中そこで働き、ハイスクールを卒業すると同時に私はレイアウトマン、イラストレーターとしてそこでフルタイムで働きはじめた。アーティストとしての自分のスキルを高める為に1931年から1932年にかけて私は夜学の「美術学生塾」に通った。

私はいつも57番街でランチタイムを過ごしたものだった。その通りのショールームではイソッタ・フランスキーニ(Isotta-Franschini)、イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)、ロールズ・ロイス(Rolls-Royce)、そしてメルセデス・ベンツ(Mercedes-Benze)などの美しいヨーロッパの車達が飾られてあった。私は今でもその美しいシャシーをありありと思い出す事ができる ―そう、当時そういった高級車はシャシーだけで売っていたのである― 赤いワイヤースポークホイールつきでクロームメッキされて、価格は8500ドルだった。

当時ミッチェルが描いたスケッチ
 バロン・コリエー広告代理店にいた頃、アメリカ初のMGの広告を手掛けたのは私だったが、私の心を本当にスポーツカーに向けた原因はコリエーの息子達との付き合いを通してだった。とりわけサムとマイルズ。彼等はヨーロッパのロードレーシングカーを1930年代にこの国に持ち帰って、一家の所有であるポカンティコ・ヒル(Pocantico Hill)の高台の長い道路を自分達の専用コースにして走らせていた。私もそこに行って彼等と一緒にレースをしたりスケッチをしたりした。私はコリエらが造った「アメリカ自動車レースクラブ」(ARCA : Automobile Racing Club of America)―これは後にSCCA(Sports Car Club of America)のさきがけとなったのだが―のバッジやブレザーのエンブレムをデザインしたりした。だがもっとも銘記すべきは、私がここで車をドライブするということがどういう事なのかを理解したという事だ。これらの外国車たちは丘の上の砂利道を猛烈に走った。車で走る喜びというものは殆ど命を失いかねない程のものだった。私が言っているのは、つねにそれは命ぎりぎりの行為だったと言う事だ。ウィンドシールドはなし、ドアはちょっとえぐってあるだけ。そこにいるのは自分と、そして4つのホイールだけだ。君は車が示すどんな挙動をも感じ取る事ができるだろう。

MGマグネット、アミルカー、ライレー、ブガッティ(MG Magnette, Amilcar, Riley, Bugatti)。エットーレ・ブガッティ(Ettore Bugatti)は信じられなかった。彼は実際上サスペンションの無いような車を造った。勿論その頃のスポーツカーではそもそもそんなものは余り重視されてなかったんだが、ブガッティのセクシーなスタイリングにはみんなぶっ飛んだものだ。そして私も狂人のごとくそれをドライブした。その中のある一台、次はこの一台、またその次はこの一台、という風に。私は神よアメリカにもこのようなものを与えたまえ、と祈ったものだ。

当時のレース風景(1930年代)
 1935年の夏、ウォルター・ケーレイという名の保険会社の重役がスリーピィ・ホロウ・リングで行われたコリエー主催の競技に参加した。彼は私の描いたレースのスケッチを見て「君は今までに車をデザインする事について考えた事があるか?」と聞いた。彼いわく、自分はジェネラルモーターズの全デザインの指揮官であるハーリー・アールの友人なので一度君の作品を彼に送りたい、との事だった。ハーリー・アール氏は部下のビジネスマネージャーであるハワード・オリーリー(Howard O'Leary)からの手紙という形で返事をくれた。それによればデザインスケッチをいくつかつくってみて欲しいとのことだった。私は夏中かかって新しいアイデアスケッチを積み上げてそれを1935年の秋に送った。クリスマスの前、私はデトロイトに来るように言われた。そして1935年の12月15日、私はジェネラルモーターズに入社したという訳だ。

上の写真はニューヨーク54番街にあった"Zumbach Motor Repair Company"の写真。左側はワークショップ内、右側はショップ外でのスナップ。ヒゲのおっさんが1904年頃アメリカに渡って来た腕っこきのスイス人メカニック、シャーリー(チャーリー)・ザムバッハ氏(Charlie Zumbach)。その左でハブを握っているカメラ目線のおっさんが「天才」と称えられたヴェルナー(ワーナー)・メーダー(Werner Maeder)。名前からしてドイツ系か。写真で見る限りではザムバッハおやじよりはひと回りくらい若そうに見える。とにかくイソッタフランスキーニだろうがメルセデスだろうがアルファロメオだろうがブガッティだろうが何でもかんでも神技的技巧でもって直し、かつ最適な状態にチューンしたという。アメリカの自動車レース草創期、後のARCAやSCCAにつながるメンバーたちが大変お世話になったという歴史的なメカニック。レース気狂いでARCAのメンバーでもあったミッチェルがGM入社後このザムバッハのガレージでヒマつぶしをしていたというのは面白くもあり、ある意味当然でもあると言える。若きミッチェルがここザムバッハでメーダーおじさんあたりを相手に「キャディラックのデザインなんかやらされちゃってホント、ウンザリしますよ」なんて怪気炎をあげていたんじゃないかと想像すると笑えます。
 それは大いなる転機だったし、偶然が重なった天恵ともいうべきものだった。が、私のジェネラルモーターズにおける仕事はエキサイティングなものではあったけれども、私はすぐにスポーツカーレースのスリルが恋しくなり、ついマンハッタンの西側にあるザムバッハ・スポーツカー・ガレージで時間を過ごしたものだ。スポーツカーというものは、ことデトロイトに関して言えば存在しないも同然の言葉だった。誰もそれを理解していなかったし気にとめる者もいない有り様だった。

 1936年の秋、私はキャディラックスタジオのチーフデザイナーに任命された。その頃のGMの「アート・アンド・カラー」セクションにはボディ造型スタッフを含めても全体で100人かそこらしかいなかったとは言え、まあこれは恐らく早い昇進と言えるかも知れない。私の最初の大きな任務は1938年式キャディラック60スペシャルのデザインだった。ラサール(LaSalle)を意識して、それは初めての「若々しいイメージの」キャディラックを表現していた。まあ興味深いチャレンジではあったものの、それは私の本当にやりたい事では無かった。

 その頃、私はGMにしばらくの間メルセデスベンツで働けるよう、休職期間が欲しいと願い出た。私にはアメリカにはレースカーがないと思えた。インディアナポリスやそれに類した背の高いファニーな外観のロードスターは私の心を全然動かさなかった。しかしヨーロッパにおいてはメルセデスとアウトユニオンとが素晴らしい戦いを繰り広げており、私もそこに一員として参加したかったのだ。それらの信じられないほど素晴らしい車たちの一台をドライブしたい、それが私の心に燃えさかる野心だった。だがジェネラルモーターズは「ダメだ」と言った。

 しかたなく私は家で「オートカー」をむさぼり読んだ。ゴードン・クロスビーのレースカーのペインティングを垂涎の思いで見つめ、入手出来る限りの全ての外国の記事を読んだ。そして私が何について考えているか一向に知りもしないデトロイト周辺の奴らについて苦悩していた。例外はハーリー・アールだった。彼には自動車に対する感覚というものがあった。かつて、1941年にウェストコーストに行った時、彼はそこで何が起こりつつあるのかを見せる為、ショップからショップへと120マイルか130マイル私を連れ回した。道でそこらの普通の人の後をつけて彼のガレージまでついていってそこで彼が何をしているのかを見ると、スペシャル・ヘッドレスト、カットダウンボディ、その他色々なモディファイを自分の車にしているという訳だ。頭がおかしくなる思いだった。先年亡くなった有名なコーチビルダー、ドン・リーの息子であるトミー・リーにはもっとも触発された。彼のショップはドラージュ、タルボ、ミラーのレースエンジンを搭載したコードなどであふれかえっていた。私には一体どれだけのフロンテニャック・フォードがあるのか判らなかった。全てが違っていた。それらは完璧に組み立てられ、そしてムーロック湖(訳注:Lake Muroc、ドライレイク、塩乾湖です)でレースをするために運ばれていった。素晴らしかった。4人の男がそれぞれ4台の車を造って、そして誰のが一番速いか証明するためにそれをムロック湖に持って行くのだ。

上の写真は1938年、レイク・ムロック(ミュロック?マロック?)における元祖ドラッグレースの風景。ミッチェルが西海岸に行った1941年頃も大体こんな風景だったろうと思われます。ちなみにミッチェルの上司、ハリウッド出身の元祖GMチーフデザイナーのハーリー・アールはガキの頃からこれっぽい風景、空気を知っていたと思われます。車を走らせる喜び、車で競走する喜びを肌で理解していたハーリー・アールがデトロイトに行かなければ絶対にコルベットという車はこの世に生まれなかっただろうと思われます。


 デトロイトではそういった事は全然なかった。全然だ!そういったムーブメントは西海岸と東海岸に存在していたがデトロイトにはなかった。理由は不明だがたぶんそれは単純にデトロイトが車そのものに「近付き過ぎていた」からだろう。どういう事かと言うと、もし君がキャンデー屋で働いていたら多分君はすぐにキャンデーに飽きてしまうだろう。バーテンダーでも酒飲みは少ないという話だ。そう、GMの上級エグゼクティブで車が好きだと言う人は殆ど居なかった。バンキー・ナドセンは車が好きだった。ハーロウ・カーチスも車が好きだった。だがもう他に私は思い当たりがない。他の人々はビジネスが好きで、たまたまそのビジネスが自動車ビジネスだったという訳だ。私は批判している訳では全然ない。彼等は一生懸命やっていた。ただ彼等は自分達が関わっている自動車産業の事を単なる運送手段を製造する産業としてしか認識していなかっただけなのだ。







 私はかつて、サンパウロに行った時にブラジルのGMのテストドライバー、「ブラジルのファンジオ」と呼ばれた男(訳注:もちろんファン・マニュエル・ファンジオ(Juan Manuel Fangioの事でしょう)と共にインテルラゴスのコースを3リッターのマセラーティで走らせる機会を得た時の事を思い出す。私はその車で猛烈に走って本当にエンジョイした。結局最後にはオイルをぶち撒けてしまったが。オイルで真っ黒に汚れたままホテルに戻った私を見て一人のGMの上級重役が聞いた。

「おいおいミッチェル、一体どこに行ってきたんだ?」
「テストコースで何台かの車に乗っていたんです」
「ふーん。で、一体何が起こったんだ?」
「車がオイルを噴いちゃいまして」
「ふーん。でもウィンドシールドがあるだろ?ところで何キロくらい出したんだい?」
「良く判りません。レースカーにはスピードメーターがついてないんです」
「えっ、何だって?スピードメーターがついてない?」
「はい。レースカーにはタコメーターしかなくてそれを見ながら決まったポイントでシフトするんです」
「本当かそりゃ?」

それは重役たちには決して理解出来ない事だった。

それでもこんな年月の中からもどうにかこうにかしてコルベットが現れた。忍耐のたまものと言える。

 デザイナーというものはクリエイティブでなければならない。そしてクリエイティブであるためには常に現状に満足せず、不満を持っていなければならない。これは性格を悪くするのに役立つ。そしてデザイナーとしてやっていく為に知っておかなければならない二つの事がある。それはまず、最後までやり遂げる、そして絶対あきらめないという事。そしてその一方である時点でその仕事を終了して振り返ってみるという事。私はコルベットの色を何度も塗り替えた。最後の最後まで何度も色を試させた。だがコルベットのアイデアそのものに変更を加えた事は一度も無い。

 もう一つデザイナーにとって困難な事がある。それは少なくとも今日においては会議というものにかかわりを持たざるを得ないという事である。シドニー・グリーンストリートが「行商人」という劇の中で立ち上がって会議室のテーブルに唾を吐きかけて「どうだ、オレの事が分かったか?」と叫ぶシーンを覚えておいでだろうか?過去25年間というもの、私がしてきたのはこれと同じ事だった。多くの人々が私もいつかは落ち着いておとなしくなるかも知れないと考えたかも知れないが、私は決しておとなしくなんかならなかったしこれからもなるつもりはない。私は思ったままを口に出す。自動車デザインに対する合議制というものについては私は・・、いや、私がこれについて思っている事はとても活字に出来るようなものではない。察していただきたい。

 経理畑の人間。私は彼等を好んで「札束数え人」(訳者註:原文bean counter、豆の数を数える人)と呼んでいたが、彼等はまず札束を数える前に魅力的でデザインのいい製品を必要としている。営業畑の人間はまず売る為にはかっこいい製品を必要としている。技術畑の人間も良いデザインを必要としている。良いデザインなくして一体どうやったら彼等の仕事がうまくいくだろうか?私は札束を数えない。セールスマンでもなければエンジニアでもない。私はデザイナーだ。そして思わず運転したくなるようなデザインの車が好きなのだ。委員会においてこの事を説明してみるといい。もしあなたが上等な仕立て屋に行ったとして、もしあなたが賢明な人間ならばあなたは仕立て屋にスーツの仕立て方について教える必要は無くてただ「スーツを作って下さい、あなたはやり方を御存知ですから」と言うだけで良い。自動車デザイナーにおいても同様である。デザイン部門において我々が直面した最大の問題は、殆どのディビジョン(訳者註:キャディラック、オールズモビルなどの各メイクの事です)のマネージャーが自分達のニューモデルのために全てのデザイナーを独占しようとした事だ。それは例えば卓越したエンジニアやセールスマンであったとしてもそれは彼がデザインについて優れた嗜好やセンスを持っているという事を意味しない、という単純な理由による。

 営業やら技術やらその他色々雑多な人間たち程私を激怒させたものはない。彼等は私のデザインした車の一台を見て、そして部屋の隅に行ってヒソヒソ話をするのだ、「これはやめたいな。こんなの作れないな」という具合に。そういう時は私は部屋の反対側の自分のスペースに行って自分のためにデザインをした。我々が「スタジオX」と呼んでいたスペースは我々の絶好の隠れ家だった。

 ハーリー・アールは常にどこかに行くためのスペシャルカーを持っていた。これは私も同様でどうかすると何台も持っていた。ある時などはスティングレイ、マンタレイ、二台のモンツァGT、その他にも自分で思い出せないくらいあった。いつも何かかやがあった。どれも自分のためにデザインしたものだ。もしそのデザインが具合良いようならそのデザインをそこから拝借して他のものに採用したりもした。また、その車そのものを会社のガレージに置いておいたりもした。そうして重役の何人かがそこを通りかかると「おい、オレにもこれをくれよ!これを造ろうじゃないか!」と言う訳だ。

1963年式ビュイック・リビエラ
 これが我々が1960年代初期に初代リビエラにおいて行った方法だ。デザイン委員会の連中に自動車デザインにおける新しいコンセプトについて説明するなどということは後回しだった。実際にその車を造る事によって自分がなにをしたいかをデモンストレーションする必要がある。これが最上の方法。そして何が起こるかを見極める事。

 過去から現在に至るまでの車たちをここにずらりと並べたとしよう。賭けてもいいが私ならその中のどれが「合議制デザイン」の産物で、そしてどれが「デザイナーだけの」産物なのかを言い当てる事が出来る。例えば1967年に発表された最初のカマロには強い自己主張がなかった。それがデザインされた時にあまりに多くの人々がパイの中に手を突っ込み過ぎたという訳だ。現行のファイアーバードとカマロは1970年に発表されるまでは委員会の誰にも手を触れさせなかった。あれは全てデザイナーたちの手によって造られた、それも超特急で。良いデザイン、今日でも最高水準のものだ。

 次はマーケットリサーチだ。誰かに「君はいままでどこにいたんだい?」と尋ねる事は出来る。だが、これからその人がどこに行くつもりであるかまでは判らない。

 フランク・ロイド・ライト(訳者註:Frank Lloyd Wright、アメリカの高名な建築家。日本の旧帝国ホテルを設計した人。旧帝国ホテルの玄関まわりは愛知県の明治村に残っている。私も行きましたがなかなか興味深い建物でした)が「あなたはどんな家がお好みですか?」なんて聞く為にあちこちの家のベルを鳴らして回った、なんて事はなかった。ハッティ・カーネギー(Hattie Carnegie:誰かよく判りませんが帽子をつくって名や財をなした人のようですね)は道を歩く女性を呼び止めて「どんな帽子がお好みですか?」なんて聞かなかった。パリの最高のファッション・デザイナーたちもシャンゼリゼ通りを歩いて通りかかる女性たちに「どんなスカートがお好みですか?」なんて聞いたりはしなかった。デザイナーたちがファッションを決め、人々はそれが好きになる。これこそがデザイナーたちがやらなければならない事なのだ。デザイナーは将来を見通せて、そして新しいトレンドを具現化する能力を持っていなければならない。デザインとは趣味の良さと判断力を要求される仕事なのである。デザイナーなら今年のデザインに惚れ込んでいてはいけない。デザイナーなら将来を見る目と耳を持っていなければならないのだ。デザイナーは明日をヴィジュアライズするだけのイマジネーションを持たなければならない。だが誰もが知っている事だが6月に毛皮のコートを売り、1月に麦わら帽子を売る事がどんなに難しい事か・・。

 私は自分のやり方として、決してマーケットリサーチには関わりあいを持たなかった。多くの人間がそれに関与していたが。私は実際にそういう連中を外にほうり出した。しばらく前、マーケットリサーチの連中がファーストバックとハッチバックのどちらで行くべきかという事についてヒューストンにおいて大掛かりな調査をした。調査の結果によればハッチバックで行くべきだという事だった。技術動向ミーティングの席上で彼等はグラフを使って説明していた。私はほとんどの人が知っている通り、論争をするのが好きだ。私は立ち上がって「その調査はゴミの山みたいなものではないか」と言った。全員が顔をあげた。そこで私は言った、「馬や鞍の調査でもないのに一体なんだってヒューストンなんかで調査を実施したんだ?私はちょうど今パリから帰ってきたところだがデザインの本場パリではハッチバックなんて一台もなかったぞ」と。そんな風にして10万ドルもかかった調査だってドブに捨てた。

(訳者註:省略しましたがここの件りでミッチェルは『馬がどうのこうの』とやけに馬に関する事を言ってます。ヒューストンって競馬か何かの名所なんでしょうかね?)

 私がデザインした車のうち、マーケットリサーチが何らかの関与をしたものでまともな格好の車は一台も無い。だからマーケットリサーチには絶対コルベットに触らせなかった。絶対にだ。もしマーケットリサーチの連中がコルベットに口を出したらコルベットがどうなったかと想像すると私はぞっとする。

 事実、コルベットに関しては我々デザイナーは思う存分やる事が出来た。私は多分お偉方たちにはコルベットという車のことが良く判らなかったのではないかと推測している。かつて私は高齢者とスポーツカーというものは全然いい組み合わせじゃないと言った事がある。がGMの社長のドナーは60歳以上の友人の何人かがスポーツカーに乗っていると言った。そんな事はあったが、いずれにしても我々はそんなに悩まされる事はなかった。

 ハーリー・アールこそ大いなる賞賛を受けるに値する。彼はハリウッドからやって来て、私が見たものと同じものを見て、心底スポーツカーを欲した。最初の一台はGMのプルービンググラウンドで行われた重役向けショーにおいて発表された。彼はそれを隠していたベールをはがして「さあ、こいつについてどう思う?」と言った。その時はさほど熱狂的な反応というわけではなかった。何故なら重役達というのは勿論スポーツカードライバーではなかったからだ。それからハーリー・アールはそいつをニューヨークのショーに持って行って多くの人々に見せた。そして人々は「これはぜひ造るべきだ」と熱狂した。

 ハーリー・アールはそいつに「コルベット」という名前をつけた(訳者註:『コルベット』という名前そのものを最初に提案したのはマイロン・スコットです。それをハーリー・アールやエド・コールが『そいつはいい名前だ』と承認したとされています。ミッチェルは勿論その辺りの事は承知の上で言ってると思います)。第二次世界大戦において使われた機動性の高いカナダの軍艦にちなんでの事だ。この名前はその頃のシボレーの「Cで始まる名前」という要求を満たしていた。最初のうち我々の殆どはこの名前が好きではなかったのだが、名前というのはおかしなものでこんな事があった。

婆さんの女中・55年式チーフテン
 例えば以前、私は「ポンティアック」という名前が嫌いだった。何故ならポンティアックの車が嫌いだったからだ。ポンティアックの車は常にダサくて、それは「合議制デザイン」の車だった。ポンティアックのイメージは言ってみれば「婆さんの女中」という感じだった。ある晩、私はその頃のポンティアックの責任者だったコーリン・キャンベル(Colin Campbell)とピエール・マーケット・ロードでの会議に参加した。彼は「もしその車がちょっとでも良ければ、その名前も良いものになる。デューセンバーグを見てみろ。この名前はひょっとしたらソーセージの名前にもなったかも知れない。でもデューセンバーグという車が余りにも素晴らしかったので『デューシーだからな』(It's a Duesie)という言葉はハイ・クォリティを意味しているじゃないか」と言った。それに比べてエドセル(Edsel)ってのは間抜けで滑稽で不器用な負け犬を思い起こさせる言葉になってる。

 バンキー・ナドセン(Bunkie Knudsen)がポンティアックの責任者になった時、彼はハーリー・アールのもとにやってきて「オレはもっとホットな車を造りたい。古ぼけたイメージはすっぱり捨てて何かこう、もっと売れる新しいイメージに変えたいんだ」と言った。

分割式グリルノーズ・59年式スターチーフ
 ナドセンの意向に沿ったデザインで我々はポンティアックのイメージを変革することに努力を傾注した。ナドセンの部下のエンジニアたちは馬力を上げる作業に着手して、実際ものすごく馬力が上がった!ポンティアックは一夜にしてビュイックとオールズモビルを抜き去ってフォードに次ぐ三番手の位置を占める事になった。分割式グリルノーズ(Split-grille front end)は全く新しいものだった。それまでにそのようなものはなかった。これを実現させるために我々デザイナーは戦った。そしてこんにちにおいてもポンティアックは依然このイメージを保持している。

 1954年式コルベットは素晴らしい外観だったが性能的には弱かった。その6気筒のエンジンは流線形のスポーツカーのエンジンルームには似つかわしいものでは無かった。だが幸いな事にあのV8エンジンとゾラ・アーカス・ダントフがシボレーにやってきた。それで我々はエルクハートレイク、ワトキンスグレンのレースにおいてジャガーやメルセデスを打ち破った。その瞬間、コルベットは名声を得たという訳だ。これには我々は大いに触発された。我々はコルベットに色々と変更を加えた。そしてハーリー・アールは私の最初のレーサー「SR-2」を造るように命じた(訳者註:色々調べてみるとそもそもSR-2はハーリー・アールの息子のために造られた、というのがもともとの始まりの様です。この頃のGMは結構家族的な会社で息子がフェラーリでレースを始めたのを見たハーリー・アールが『馬鹿野郎!オレの息子ならフェラーリなんかに乗るな。オレが速い車を造ってやる。おいミッチェル。お前、デザインしろ』というようないきさつがあった模様です。このあたりの話も面白いのでまたいつか御紹介したいと思います)。そしてハーリー・アールは1958年に引退し、私はその仕事を引き継いだ。そしてコルベットは私の息子となったというわけだ。

Peter Helckが描いたバンダービルトカップレースのポスター
 この頃までには私はもうレースがやりたくてうずうずしていた。私がいつもその仕事ぶりを賞賛していたピーター・ヘルク(Peter Helck)がある日私に会いに来てくれたので我々はレースについて大いに語り合った。(中略)そして二番目にピーターは「一体なんだってGMはレースをやらないんだい?」と言った。私はその理由を知っていた。ハーロウ・カーチスは国家安全委員会(National Safety Council)のヘッドだったため、体裁を考えてシボレーはレースを中止していたのだ。それから私はピーターを階下に連れて行って私の特別プロジェクトを見せた。彼はそいつが気に入った。「これはスティングレイって言うんだ」と私は説明した。



(訳者註:Peter Helckという人の詳細は判りませんがカー・イラストレーターではないかと思われます。GM外の人間である可能性が高いです。訳を省略した部分にメルセデスのイラストレーターのゴチュケの話が出て来たりしますのでこの人もドイツの人かも知れません。ミッチェルはゴチュケとも親交があった様で、彼の家にはゴチュケからプレゼントされたと思われるイラストが飾ってあります)



 1958年の後半までにはカーチスは引退していてジョン・ゴードンがGMの社長だった。そしてエド・コールがシボレーのボス。もはや国家安全委員会がらみで我々がレースが出来ないという目立った理由は全然なかった。シボレーにはもう使う当てのないレース用シャシーがあって(訳者註:勿論ダントフの造ったセブリング・スーパースポーツ、コルベットSSのシャシーの事です)私はエド・コールにそのシャシーを適価で譲ってくれ、レース活動がひととおり終わったらまた返すから、と頼んだ。そして私は新たにボディをデザインし、シボレー・エンジニアリングの人間を雇って時間外、および週末に地下の工房でシャシーへの艤装をさせた。

 ディック・トンプソンをドライバーに起用して最初にマールボロに遠征した時、スティングレイ・レーサーのツインサーボブレーキが不調に陥った。片方だけロックしたかと思うと次は別の片方がロックするという具合でディックはとてもそいつを手なづける事が出来なかった。我々は暫くの間はレースをリードする事が出来たがそんなブレーキトラブルを抱えていてはそのレースに勝つなどとても無理な相談だった。我々は結局4位でフィニッシュした。そして(GM社長の)ジョン・ゴードンがこの事を耳にした。彼は「レースなんかしてる場合じゃない。すぐ止めろ」と言った。デザイナー仲間たちに助けてもらって私はゴードンに手紙を書いた。「コリエー兄弟たちとレースをして来た事、コリエーたちのレースのスケッチを描いたりした事こそがそもそもこの私がGMに招かれる事となった原因なのです。レースというものは私の血の中に生まれついて流れているものなのです」という内容だった。

 許可はおりた。私がGMの金を一切使わず、GMの敷地内にスティングレイ・レーサーを置かない事という条件で。そんなのは簡単な事だった。私はトゥエルブ・マイル・ロード郊外にガレージを借りた。そしてディック・トンプソンのドライブでスティングレイ・レーサーはその後二年間、エルクハート・レイク、ラグナ・セカ、リバーサイド、ダンビルなどアメリカ国内の全ての名のあるサーキットを転戦した。実際に良くやった。私は全ての費用を自分で出した。そして税金の控除をめぐって政府とわたりあったりしなければならなかった。しまいにはジョン・ゴードンが「もう充分だ。もう良くわかったからそいつは終わりにしろ」と言った。ちょうどいい頃合で、さもなければ私も破産宣告を受けるハメになったかも知れなかった。

エアロベット
 ジェネラル・モーターズは明らかにレースをするだけの資金を持っていた。私はいつもその金を使うべきだと考えていたのだが。世に出なかった試作のコルベットなんてのは何台もあった。そしてレース用のコルベットに至っては私は我々にそいつでレースをさせてくれと地獄に祈った程だった(訳者註:天に祈っても通じないので地獄にまで祈った、と言う事らしいです)。レース用コルベットはテストすることさえままならなかった。これは恥ずべき事だ。我々は何年か前、ミッドシップエンジンのコルベットを試作した。これは試してみたかった。美しい車で「エアロベット」と言う名だった。

 だが私はくじけなかった。どんなチャンスでもモノにした。1958年の事、ルディ・ウーレンハウト(Rudi Uhlenhaut)がシュツットガルト近郊のメルセデスのサーキットにW125に乗せるために私を連れて行ってくれた。二十年来の夢の実現だった。バカ長いエンジンフード、20インチのホイール、でかいスーパーチャージャー‥‥。私は乗り込んでステアリングを握った。そして何度も何度も周回した。雨が降っていた。私の英雄、ルディ・カラッチオラ(Rudi Caracciola)は雨の達人だった。私はもう二度とこんなチャンスはないだろうと思ったのでこの車の挙動を見極めてやろうとした。つまり、カラッチオラがコーナーにさしかかるとき、彼はブレーキを踏む代わりにアクセルを踏み付けた。するとスーパーチャージャーが働いて四つの20インチタイヤはこの獰猛な野獣をくるりと回らせるのである。だから私もそれを一度ならず試してみたのである。やってみるとそれは実にうまく行った。すると突然コースじゅうがヘッドライトをつけたメルセデスだらけになった。メルセデスの人々は私ミッチェルがコースの外壁の外側に飛び出してしまうと思ったのだ。

ベンツに乗り込むミッチェル・目がマジ
 私が戻ってきた時、ウーレンハウトがやってきて「心配しなくてもいいぜ、怪我をしても医者はあそこにいるからな」と言った。私は別に心配してはいなかったので「私ではなく車の方に医者が必要だ」と言ってやった。

 話がそれたがついでにもうちょっと脱線しよう。私は1955年に同じ場所でメルセデスの300SLガルウィングにも乗った。私は今でもあれはメルセデスが造った中で最高の一台だと考えている。我々もその頃、ガルウィング車のプランを持っていたがどいつもこいつも重すぎるものだった。だが我々には出来るはずだしやらなければならないと思った。我々には既に製造可能な2〜3種のガルウィング・コルベットの用意があった。

 これがスポーツカーの面白いところだ。そいつをよりエキサイティングなものにするためにやれることはいくらでもある。制限はない。実際のところ制限はただひとつ、スポーツカーの事をわかっている人間にそいつをデザインさせなければならないという事だけだ。私にはいい部下が沢山いた。順番に言うと、クレア・マッキカン(Clare MacKichan)、アーブ・リビッキ(Irv Rybicki)、ハンク・ハガ(Hank Haga)、デイブ・ホールズ(Dave Holls)、チャック・ジョーダン(Chuck Jordan)、ジェリー・パーマー(Jerry Palmer)などだ。彼等の血の中にはガソリンが流れていた。それがコルベットを成功に導いたのだ。彼等の誰もがコルベットを運転したし、その他のフェラーリやマセラーティ、ジャガーでも何でも運転した。彼等は車について語り合い、車とともに生きていた。

 ミケランジェロはシスティーヌ教会の全ての絵を彼自身で描いた訳ではなかった。多くの人の助けを借りて仕事をしたのだが、全体を指揮していたのは彼だった。そしてフランク・ロイド・ライト、もし君が彼と働いていたなら君は彼の信条を受け入れた事だろう。私の部下たちも私と同じ考え方をした。私は彼等に自分の考えを強要する必要はなかった。私は自分のやりたいもの、方向性を示すだけで、そして彼等はそれを成し遂げる。彼等は私を必要としていない。もし方向がずれていたら私がもとの方向に戻す。個人的な事だが、私は自分が良いと思わない部分をそのままに残しておく事はしたくない。彼等はそれを知っている。だから私はあえてその事を指図しない。その必要はないのだ。私はミーティングも彼等自身にやらせる。私は参加しない。だがもしうまく行かない時は彼等は電話のあるところまで行って私を呼び出す。そして私がのっそりとやってくるという訳だ。殆どの場合、私はうまくやってきた。いつも絶対というわけではなかったが。

4座席コルベット・後頭部が日焼けしそうである
 1963年、スティングレイに続いて4シーター・コルベットを発表するという話があった。これは決して実現してはならないアイデアだった。シボレーのチーフエンジニアのハリー・バール(Harry Barr)は私の味方で4シーターコルベットを造りたがらなかった。4シーター・コルベットはエド・コールの意向だった。彼は後で4シーターにも転用出来るように、私に2シーターコルベットのウィンドシールドを高く造らせた。出来る相談ではなかった。2シーター専用車を造るか4シーター専用車を造るかのどっちかだ。そうでなければ出来上がるものは実際クズでしかない。4シーターのプランはやがて立ち消えになったがそのなごりとして2シーターは随分ずんぐりしたものになった。

 1回か2回は上からの圧力に屈した事もあったかも知れないが、総じて我々は戦いに勝ったと言えるだろう、コルベットはまだ存在しているのだから。2〜3年前、ロッシュ(Roche)がコルベットの生産を中止しようとした事があった。儲けが少ないと言う理由だった。この話には我々は頭が変になりそうだった。コルベットというのは他のアメリカのいかなる車よりもオーナーの忠誠心の高い車であり、これはフォードの持ってない重要なものなんだ、と私は文句を言った。「ジム、もしあんたがレースに行った事がないのならこの事は全然わからないだろうな。もしあんたがエルクハート・レイク(訳者註:レース場の名前です)に行っていたなら若者達の大好きな何百台もの車(コルベット)を見ただろうに。それなのにジェネラルモータースは『もうコルベットを造るのはやめるんだ』って言おうというのか?」と私は言った。信じ難い話じゃないか。私が心配したのは若者たちだ。彼等はコルベットが一体どういうものかを知っているから。

 私がビミニ(Bimini)で仕留めた鮫(Shark)を剥製にした後、私はその壁の鮫をずっと見続け、そして「こんな感じの車を造りたいな」と呟いた。部分的な特徴ではなく全体的な印象の話だ。青い胴体に白い腹、そして陽光があたるとキラリと銀色に光る。ただこんな感じの車が欲しかっただけだ。メイコ・シャークに始まって次にはマンタ・レイ。コルベットの原形でもある。

 コルベットのオーナーたちのやり方はこうだ。彼等はコルベットを個性を表現する乗り物として考えているし自分自身の延長として捉えているし、そして自分自身と捉えている。私はコルベットの集いに顔を出す度にこの事を認識させられる。イベントがある事が判れば何度でも私はそういったイベントに参加するだろうし呼び出される事もあるだろう。そして誰かがペットみたいに可愛がっているコルベットを持ち出してきて私に自分がどんなモディファイをしたかを見せに来るだろう。これが我々がコルベットをファイバーグラスで造り続ける一つの理由だ。そうすれば車のモディファイが容易になるからだ。

 ある意味ではコルベットという車は実は完成されていないとも言える。常にオーナーが手を加える事の出来る部分がある。乗っているうちに段々くたびれてくる部分が出てくるだろう。そして少しばかりくたびれた後、オーナーはそのコルベットをより自分にぴったりと、より自分にとってカンファタブルにするために出来る事があるのを発見するだろう。私自身、いったいどれ位の長きにわたってシャーク(コルベット)を所有し続けているだろうか?今でも私は毎晩、家の近所の道路でそいつに乗って少しばかり楽しんでいる。そしてマンタレイとレーシング・スティングレイは私の持っている中でも相当年月がたっているものだが、毎年、私はこれらの車について何やかや手を加え続けている。ペダル類を直し、ホイールを変え、シートをモディファイし・・、だから私がこいつらに乗って外に出る時、車は私そのものなのだ。若者達も同じ事をやっている。

 ワイルドなボディペイントもコルベットで楽しむ事の出来るユーモアで、私はそれを見るのを楽しみとしている。私の妻は白いコルベットを持っていたが私はそれに「まつ毛」を描いたりした。若者達に―私は『若者』という言葉を必ずしも年代ではなく心の状態について使っているのだが―ついてはまた別の話がある。若者達の中には今や多くの女の子達が含まれている。私のオフィスだけでも6人くらいコルベットに乗っている秘書がいる。コルベットに乗っている女の子というのはまた特別なものだ。彼女は例えばカマロに乗っていても確かにチャーミングに見えるかも知れないがコルベットに乗るとまた少し違った感じがする。私はいつもコルベットの乗った女の子を見たら手を振るようにしている。というよりは彼女が先に手を振るからなのだが。

 私には11歳の娘がいて、彼女は多分許される事なら一日中でも自分でスティングレイをドライブしてみたいと思っているはずだ。彼女は車に詳しいのでいつだったか、「ほらごらんあそこに新しいフェラーリがいるよ」と言ったら彼女は「お父さん、あれは新しいコルベットじゃないの」と言った。11歳の子供に間違いを ―しかも自分の車について― 指摘されるのはバツの悪い事だ。だが私はその車を一度も路上で見た事はなく、いつもスタジオで見ていた。そのせいで見え方が全然違っていたのだ。キャディラックの老チーフエンジニアのアーニー・シーホーム(Ernie Seaholm)が言う通り、デザインスタジオの中の車なんて台所の中の馬みたいなものだ。車は動くものだから外で他の車に混じって走っているそいつを見なければならない。 我々はここデザインスタジオでその車を見る事ができるし、そのデザインはみんなに承認されていた。実際私に関しては1979年式はもう終わりで次は1980年式だと考えていた。ところがその新型コルベットが実際に道路上に出て他の車に混じってみるまではそのデザインがいいかどうかは実際には知る事は出来ない。まあ今まではコルベットのデザインはずっと良かったとは思うが。

 スタイリングというのは進歩するものだ。1950年代には我々はいちいち車のテールにフィンをつけようとしたものだった。1960年代にはファットな外観に収拾がつかなくなった。1970年代初期には、会社が余りにも "turn-under"と"tumblehome"に夢中になったのでその中のあるものは何だかローラースケートを履いたカブトガニの様に見えてきた(訳者註:turn-under"も"tumblehome"も何の事かわかりません)。そして今はまた違う方向だ。時代は変わったのだ。私は現代のデザインの全てのトレンドを支持している訳ではないが、それでも私はそれを認めなければならないのだろう。車によっては6人の人間がそれぞれの流儀でよってたかって造ったかのように見えるものがある。チューリンのスタジオにおいて提出されたデザイン画の山を見て私の心は冷え冷えとした。私は「美しさ」と「エレガンス」が「機能」の前に屈しなければならないというのは許せない。どんなに実用的だろうと見てくれの悪い箱は見てくれの悪い箱でしかない。見るべきものが何も無いほどシンプルな車を所有する事などが出来るものだろうか。車と言うものは興味深いものでなければならない。であればこそ、人がその車を見る度にそれは違って見えるのであるし、ついじっと見つめてしまうのだ。コルベットも常にそうあらねばならない。

 しかしながら、将来コルベットが変わるであろういくつかのポイントはある。それは大きさの話だ。間もなく登場するコルベットはピニンファリーナボディのフェラーリ308GTBにとても近いものになるだろう。あのサイズに非常に近いものになるはずだ。そして大排気量エンジンもなくなるだろう。誰もそれを悲しむ必要は無い。少なくとも私はそれを悲しみとしない。私はメルセデスが6リッターかそこらのエンジンから1.5リッターにまで落としてきた時の事を覚えている。それはトリポリで発表されテールを滑らせながら走った。来たるべき変化がコルベットの魅力をスポイルするという事は決して無い。少しばかり小さくはなるだろうが、それはちゃんとコルベットなのである。

 私がコルベットに個人的に望むものはそれが高品質で、常に最高で、良きデザインの見本であってそして12,000ドルから15,000ドルくらいで販売されていて欲しいという事である。今まで我々が必ずしもその全てを満足させる事が出来たとは言わないが。ヨーロッパ市場向けに海外の我々の工場のどこかでコルベットを生産してみるというのはどうだろうか。私の考えるところでは、今後思いがけない事態が起きない限り今後10年間に亘ってスポーツカーは次の三つのメーカーからやってくるだろう。それはつまりフェラーリ、ポルシェ、そしてコルベットである。

 私は事態の成りゆきを見守るつもりだ。私は高性能な車に興味を持っているすべての人々同様に好奇心旺盛な観客であろうと考えている。何故ならこの私の文章が世にでる頃には既に私はジェネラル・モータースの40年に亘る生活にピリオドを打っている事であろうからだ。だが引退というのは響きの悪い言葉だ。私は現役時代に楽しんでやっていたのと同じ事を今でもやっている。車をいじって改造してよりホットなものにしているのだ。私はフェラーリ・デイトナのエンジンを積んだポンティアックのファイヤー・バードを手に入れたところだ(訳者註:何か勿体無い気もいたします)。私はそいつを「ペガサス」と呼んでいる。そして私はオートバイも手に入れた。私はここのところオートバイのデザインを手がけている。最近もっとも情熱をそそいでいるものだ。車の場合は人は馬車に乗ってそして馬たちが前にいるという感覚だがオートバイの場合は自分自身が馬になる感覚だ。それは素晴らしい感覚だ。オートバイに乗る時は決して鼻をほじったりしてはならない。勿論私はコルベットに乗る時も鼻をほじらないようにお薦めするが。

 あなたはコルベットの集いやホットロッドショーやカスタムカーショーで私の姿を見つける事だろう。私はいつもそうした場所にいるだろう。そこにタイヤが四本ついたコルベットがある限り、そしてタイヤが二本ついたホットなオートバイがある限り私はそれらについて何やかややる事があるし、そのおかげで私はいつまでも若くいられる。疑いも無い事だ。

(この項終わり)


11 April 2001