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The American Hot Rod |
| by Dean Batchelor published by MBI Publishing Company | Rating: |
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私の持っている中でもベストな自動車本のひとつ。ホットロッドの歴史や文化的背景を知るのにこれ以上の本はないように思います。次から次へと出て来る話は私にとっては見たことも聞いたこともないものばかりで(ひょっとしたら私が知らないだけで常識なのかも知れませんが)殆ど驚倒いたしました。著者自身の青年時代の回想はその頃の時代の空気を良く伝えていますし、他のホットロッドの歴史の生き証人たちの談話・挿話なども読んでいてあたかも目の前でその人々がいきいきと動いている姿が見えるかのような印象を持ちました。 この本を通して感ぜられる自動車バカのアメリカ青年たちの情熱、創意工夫、脳天気なほがらかさ、バカさ加減、こういったものには素直に尊敬の念を覚えると同時にアメリカの自動車文化の深さというものに畏怖めいたものも感じてしまいます。また、当時の青年達の暮らしぶりの話や流行りのミュージシャン、映画スターの名前などが随所に出て来る事も初期のホットロッドを取り巻く時代背景を理解する手助けとなっています。さらに、草創期のホットロッド・ムーブメントに参加していた少なからぬ日系人の名前や写真をこの本で発見したことも個人的には実に興味深かったです。 この本の著者ディーン・バチェラー(Dean Batchelor・故人)は、もともとは生粋のアメリカン・ホットロダーでしたが、ヨーロッパ戦線におもむいた時に触れたイギリスのスポーツカー文化に興味を持ち、またフェラーリなどのスポーツカーもこよなく愛し、レーサーでもあり、そして後に雑誌 "Road & Track"の編集長になり、さらにはハーラー・コレクションの館長にまでなったという人で、アメリカの代表的な自動車文化人のひとりだったようです。 この本は全てのアメ車好きにとって興味深い本であろうと思われますが、とりわけホットロッド好き、マッスルカー好きの方にはこたえられないだろうと思います。その理由は自分たちが愛する車のルーツがどこにあるかがこの本を見れば一目瞭然だからです。興味を覚えた方はどうぞ原書をamazon.comなどでお求めになって是非続きをお読みください。損はしない筈です。 |
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上はロサンゼルス近郊の図。地図によればサンタモニカからミュロック湖(Muroc Dry Lake)までは直線距離で100kmくらいと思われます。これなら日帰りで充分レースをやれた筈です。 一方、下の図はユタ州と言ってもネバダ州境近くWendover横のボンネビル(Bonnebille)とミュロックとの位置関係。直線距離でざっと800km位、道路を走ると1,000km近くありそうです。SCTAがエル・ミラージュあたりからユタ州のボンネビルに活動拠点を移動しようとした時に「そんな遠くまで行けるかい!」とメンバー達から不満が噴出したという話ですが、この地図を見ると反対派のメンバーの心情も理解できないことはありません。 尚、ボンネビルが「ソルト・レイク」であるのに対してミュロックなどロサンゼルス周辺のドライ・レイクは大昔は普通の淡水湖だったらしく実は土質にも塩分は含まれてないのだそうです。また一群のドライレイクの中には冬だけ水が溜まって、春から夏にかけて乾く湖もあって、そこでは夏場だけレースをやったという様な記述も何かで読んだ記憶があります。ちなみにMurocは1941年に軍に接収され、1943年をもってホットロダーたちはそこから追い出されてしまったそうです。その後Murocは陸軍や空軍に利用されたりするうちに最終的にはエドワーズ空軍基地となり、その時に多分原形をとどめない程の大規模な開発があったのでしょうか、Murocの名は消滅、残ったドライレイク部分は現在は "Rogers Dry Lake" と呼ばれているそうです。 |
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(訳者註) 世界で初めて1シリンダー当たり4バルブのエンジンを実現したのは1912年のプジョーのL76というフランス車。ただし設計はエルネスト・アンリというスイス人。当時アメリカ人はこれを見て「なかなかいいじゃん」と思ったらしく、数年後にミラーなど4バルブのエンジンが出てきました。ミラーは途中で潰れましたが社員のひとりだったオッフェンハウザーによってこの系統・形式のエンジンは長生きしました。本によってはミラーについて「プジョーをコピーした」と書いてあったりします。当時は他にもレイジョーとかフロンテニャック(面白い事にこのフロンテニャックのDOHCエンジンはフランク・サカヤマという日系人が設計しています)の様なアフターマーケットシリンダーヘッドや、あるいはメーカー系ではデューセンバーグなどDOHCだったり4バルブだったりするエンジンは少なく無かったのですが1940年代にはオッフィーを除いてその殆どが綺麗さっぱり消えてなくなってしまったのは実に興味深い事です。また、この頃のアメリカ大陸とヨーロッパ大陸との情報的距離は現在想像するよりずっと近かったらしい事も興味深く思われます。アメリカ人は思ったよりヨーロッパの事を知っていたし、英国を含むヨーロッパもアメリカに大いなる関心を寄せていたようです。この年代の本を読んでいると時々そう思わされる記述があります。 |
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サーガス・カフェ 1898年創業 昼夜営業 ドラフト・ビール レースの前と後にビールで景気づけをしよう!* サーガス郡、カリフォルニア |
| *原文 "Beer Up Before and After the Races"。この広告を見る限り当時のドライレイクでは酔っ払いどもが集って危険きわまりないレースを展開していた可能性があります。 |
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| 上は"When The Hot Rods Run - Muroc 1938"という古本で見かけた写真。クォリファイやレースの結果が悪かったのかあるいは逆に結果が良くて嬉しかったのかそれともただの飲んだくれだったのか良く判りませんが何にしてもミュロックにてビールを飲んで酔っぱらって寝てしまったの図。 |
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| これも"When The Hot Rods Run - Muroc 1938"という古本で見かけた写真の部分拡大。当時の計測はシロウトにはうかがい知ることの出来ない摩訶不思議な方法によって行われていたようです。ゴール地点横に停めたトラックの荷台にこの計測器一式をのっけてスタート地点と無線?連絡をとりながら一生懸命タイム計測をしていたものらしい。 |
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| 上は "When The Hot Rods Run - Muroc 1938" に載っていた当時のレースのエントリーリストの一部。タイプライターと手書きの至って簡素なものだが読んでみると当時のチューニングショップの広告や賞品の協賛広告などが中々興味深い。エントリーリストの人名を眺めているとディーン・バチェラーの言う通り当時から結構日系人のエントラントがいた様子です。フランク・モリモト(森本?)、ミノ・カミムラ(神村?)、ジミー・ミノベ(美濃部?)、ヤム・オカムロ(岡室?岡村?)兄弟、カール・ショージ(庄司?)、アーニー・ヒライ(平井?)ダン・サカイ(酒井?)などの名前を見つけることが出来ます。この中でも「ヤム・オカムロ(オカムラの間違いじゃないかと思うのですが)」は戦後もトップ・コンテンダーとしてホットロッド・ライフを継続したものらしく上のミュロックのレース・ミーティングのざっと10年後、下の写真の通り1948年当時の「ホットロッド」マガジンの「人物」のページに紹介されたりしてます。「ヤム・オカ」という通称だったらしい。「ヤムオカは柔道の黒帯でもある」なんて書いてあります。"The First 12 Issues of HOT ROD magazine" という本に載っていました。 |
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| 右から三人目がフランク・モリモト (この写真は本書 "The American Hot Rod" に載っています) |
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