20) 後にホットロダーと呼ばれた男たちの青春

まだ「ホットロッド」という言葉が無かった頃、後に自分達がホットロダーと呼ばれることになる事も知らずに車バカをやっていた脳天気な青年達の話を訳してみました。

出典書:
The American Hot Rod
by Dean Batchelor
published by MBI Publishing Company
Rating:  
 私の持っている中でもベストな自動車本のひとつ。ホットロッドの歴史や文化的背景を知るのにこれ以上の本はないように思います。次から次へと出て来る話は私にとっては見たことも聞いたこともないものばかりで(ひょっとしたら私が知らないだけで常識なのかも知れませんが)殆ど驚倒いたしました。著者自身の青年時代の回想はその頃の時代の空気を良く伝えていますし、他のホットロッドの歴史の生き証人たちの談話・挿話なども読んでいてあたかも目の前でその人々がいきいきと動いている姿が見えるかのような印象を持ちました。
 この本を通して感ぜられる自動車バカのアメリカ青年たちの情熱、創意工夫、脳天気なほがらかさ、バカさ加減、こういったものには素直に尊敬の念を覚えると同時にアメリカの自動車文化の深さというものに畏怖めいたものも感じてしまいます。また、当時の青年達の暮らしぶりの話や流行りのミュージシャン、映画スターの名前などが随所に出て来る事も初期のホットロッドを取り巻く時代背景を理解する手助けとなっています。さらに、草創期のホットロッド・ムーブメントに参加していた少なからぬ日系人の名前や写真をこの本で発見したことも個人的には実に興味深かったです。
 この本の著者ディーン・バチェラー(Dean Batchelor・故人)は、もともとは生粋のアメリカン・ホットロダーでしたが、ヨーロッパ戦線におもむいた時に触れたイギリスのスポーツカー文化に興味を持ち、またフェラーリなどのスポーツカーもこよなく愛し、レーサーでもあり、そして後に雑誌 "Road & Track"の編集長になり、さらにはハーラー・コレクションの館長にまでなったという人で、アメリカの代表的な自動車文化人のひとりだったようです。
 この本は全てのアメ車好きにとって興味深い本であろうと思われますが、とりわけホットロッド好き、マッスルカー好きの方にはこたえられないだろうと思います。その理由は自分たちが愛する車のルーツがどこにあるかがこの本を見れば一目瞭然だからです。興味を覚えた方はどうぞ原書をamazon.comなどでお求めになって是非続きをお読みください。損はしない筈です。


Before "The War" They Didn't Call Them Hot Rods

 ロサンゼルスからモジェイブ砂漠(Mojave Desert)を結ぶ道の途上にあるのどかな風景のミント・キャニオン(Mint Canyon)に突然モーターサイクルの集団のけたたましい爆音が響いた。それは1927年の事で、南カリフォルニアでよく見かけるハーレー・ダビッドソンにもインディアンにも、そしてヘンダーソンにも似ていないこれらの見慣れないモーターサイクルを駆るライダーたちはある目的を胸に秘めて二車線のコンクリートの道路を雷のように走って行った。爆音に驚いた13歳のチャールズ・スコット(Charles W. Scott)はハイウェイ沿いにある家から走って飛び出してきて、この機械馬の隊列を見た。

 2〜3週間後、のどかなこの土地の静寂は再び破られた。今度は車たちによってだった。前回スコットが見かけたモーターサイクル同様、今度の車たちも奇妙なものだった。自走している車もあったが別の車に牽引されている車もあった。殆どの車はフェンダー、ステップボード、ライト、バンパー、そしてその他不要なものは全て取り去られていた。

 上はロサンゼルス近郊の図。地図によればサンタモニカからミュロック湖(Muroc Dry Lake)までは直線距離で100kmくらいと思われます。これなら日帰りで充分レースをやれた筈です。
 一方、下の図はユタ州と言ってもネバダ州境近くWendover横のボンネビル(Bonnebille)とミュロックとの位置関係。直線距離でざっと800km位、道路を走ると1,000km近くありそうです。SCTAがエル・ミラージュあたりからユタ州のボンネビルに活動拠点を移動しようとした時に「そんな遠くまで行けるかい!」とメンバー達から不満が噴出したという話ですが、この地図を見ると反対派のメンバーの心情も理解できないことはありません。
 尚、ボンネビルが「ソルト・レイク」であるのに対してミュロックなどロサンゼルス周辺のドライ・レイクは大昔は普通の淡水湖だったらしく実は土質にも塩分は含まれてないのだそうです。また一群のドライレイクの中には冬だけ水が溜まって、春から夏にかけて乾く湖もあって、そこでは夏場だけレースをやったという様な記述も何かで読んだ記憶があります。ちなみにMurocは1941年に軍に接収され、1943年をもってホットロダーたちはそこから追い出されてしまったそうです。その後Murocは陸軍や空軍に利用されたりするうちに最終的にはエドワーズ空軍基地となり、その時に多分原形をとどめない程の大規模な開発があったのでしょうか、Murocの名は消滅、残ったドライレイク部分は現在は "Rogers Dry Lake" と呼ばれているそうです。
 自走している車たちはけたたましい排気音を立てていた。若きスコットはその威容に打たれた。この車たちは一体何だろう、と思ったスコットは家に駆け戻ると母親に自分の家の1922年式シボレー・ツーリングに乗って彼らを追いかけて行ってもいいか どうか尋ねた。スコットは12歳の時に既に運転免許を取っており(訳者註:当時のアメリカではそういうものだった様です)、幼い弟と妹、そして何人ものクラスメイト達を毎日学校に連れて行ったりしていたのである。

 母親は自分が同行するならば、という条件でOKした。チャーリーは13歳ながら既に運転の腕は確かなものだった。しかし彼も母親もこれらの車が一体どこまで走って行くのか、そしてどこでストップするのか見当もつかなかった。

 チャーリーと母親、この向こう見ずな二人組は集団の少し遅れたものの後についていった。まずはパームデール(Palmdale)を通りそれから北上してランカスター(Lancaster)を通ってロザモンド(Rosamond)という小さな町まで行ってそこで今度は東に進路を取って3マイル程行ったところでロザモンド・ドライレイク(Rosamond Dry Lake)の入口についた。そこにはコースと粗末な計時用機器類が既 にしつらえてあり、車たちは計測区間を走る為に一列に並んで待っていた。

 スコットは彼らが「飛び入り」の参加も認めているのを知った。現在の彼の記憶によれば確か50セントの出場費でかれは自分のシェビーでその計測区間を走る事が出来たのである。心臓が口から飛び出しそうだったがそれでも若きチャーリーはアクセルを床まで踏み付け自分では多分時速100マイルは出たと思える程の勢いで計測区間を走り抜けたのだった。そして「時速69マイル」という結果表を受け取った時、チャールズ・W・スコットのドライレイクにおける初挑戦は大いなる失望とともに終わったのである。

 それから26年後の1953年。チャールズ・W・スコット所有、ルロイ・ホームズ(Leroy Holmes)運転のアーダン・フォード・Bクラス・レイクスターはボンネビル・ソルト・フラットにおいて平均時速200マイル(時速約320キロ)を達成した初めてのオープンホイールのホットロッドとなった。だがそれは後の話である。今はもう少し当時の話を続けるとしよう。

(訳者註:『アーダン・フォード』とは勿論後年の『チーフ・コルベット・エンジニア』ことゾラ・アーカス・ダントフの設計によるフォード・フラットヘッドV8用OHVヘッドの事です)

 我々の仲間内では誰も13歳で車が運転出来る程の贅沢が出来る者はいなかった。そして息子がメカ気違い達の隊列をファミリーカーで追い駆けるのに同行するような母親を持った者もいなかった。つまり我々は車が疾走するのをただ見ていただけだったのである。

 1927年当時の環境は現在とは全く違っていた。当時はフリーウェイもハイウェイもなかったが同時に交通量も多くは無かったのである。当時ロサンゼルスからドライレイクに行くのに要した時間は現在において要する時間と大差の無いものだった。今日では片道2時間少々だが当時でも2時間半に満たないくらいで行く事が出来た。

 スコットが住んでいたミント・キャニオン(シエラ・ハイウェイ:Sierra Highway)、ハイウェイ6号線のみがロスからドライレイク地帯へ行く唯一の道路という訳ではなく、ただドライレイクに向かうロサンゼルスの男達に最も多用された道だったというに過ぎない。オレンジ郡やリバーサイド郡、そしてサン・バーナーディノ(Orange, Riverside, San Bernardino)住む者たちはケイジョン・パス(Cajon Pass)を越えて国道66号線に乗ってサン・バーナーディノからビクタービル(Victorville)にまで至り、その後395号線クレーマー・ジャンクション(Kramer Junction)まで北上、その後ミューロッ(Muroc)またはロザモンドまで西進するかハーパー・ドライレイク(Harper Dry Lakes)まで東進したのである。

 ミント・キャニオンのルートはレーサーを牽引する場合に好まれた。目的地は同じなのだがミント・キャニオンの比較的ゆるやかな坂道は車を牽引するのに適していたからである。サウガス(Saugus)やニューホール(Newhall)から海抜3179フィート(約970メートル)のパームデール頂上付近までは30マイルの間に2000フィート(約600メートル)の高低差があった。それに対してケイジョン・パスからサン・バーナーディノに至るルートは20マイルに満たない道のりなのに1040フィート(約312メートル)から4190フィート(約1260メートル)、約3100フィート(約930メートル)もの高低差があったのである。

 それに加えてハイウェイ6号線の道すがら、我々はミント・キャニオンとソールダッド・キャニオンが交差するソールミント・ストア(Solemint store)に立ち寄り、1杯10セントで世界最高のビールを飲む事が出来たのである。そのビールはキンキンに冷えたマグカップに注がれる事によっていっそう味が引き立っていた。

 1927年にロザモンド・ドライレイクでスコットが見た車やエンジン、そしてその後第二次世界大戦に至るまでの年月に現れた車やエンジンは若者たちが発揮した才能の驚嘆すべき見本であると言える。1920年代、1930年代に車をモディファイしたり造ったりしていた者たちは誰でも自分自身の発想を持っており、そして友人達も同様で、そうやって発展して行ったのである。

 当時発行されていた自動車雑誌は自動車産業向けの退屈な工作記事やメンテ記事についてのものか、或いはオーバル・トラック・レースの内容が主体のレース場で売られているレース専門誌しかなかった(訳者註:個人的には1920年代に既にレース専門誌が発行されていたというのも凄い事だと思いますが。ひょっとしたら競馬専門誌的なものだったかも知れませんね)。それらは「ハウ・ツー」本ではなかったのである。

 また、入門者がレースカーを準備するための秘伝を学ぶ事が出来るような「スピード・ショップ」もほとんど存在しなかった。リー・チャペル(Lee Chapel)がおそらく本邦(訳者註:勿論アメリカ)初のスピード・ショップをロサンゼルスのサン・フェルナンド・ロード(San Fernando Road)に開設した。そしてジョージ・ワイト(George Wight)がカリフォルニアのベルに「ベル・オートパーツ」(Bell Auto Parts)をオープンした。いずれも1930年代初頭の話である。

 市販エンジンをモディファイする最初のチューニング・パーツ(訳者註:原文 "speed equipment")はインディアナ(Indiana)がその原初である様に思われる。それらのパーツはT型フォード、シェビー、あるいはダッジなどの4気筒エンジンを搭載したオーバルトラック・レーサーのために造られた。少なくとも1920年には誰もがフォード、シェビー、ダッジ用の「プジョー・タイプ」と謳われた16バルブヘッドを購入する事が出来たのである。それらのヘッドはインディアナはアンダーソンのロバート・ルーフ(Robert Roof)や「モートン&ブレット」(Morton & Brett)、クレイグ・ハント(Craig-Hunt)らの手によって製作された。

(訳者註)
 世界で初めて1シリンダー当たり4バルブのエンジンを実現したのは1912年のプジョーのL76というフランス車。ただし設計はエルネスト・アンリというスイス人。当時アメリカ人はこれを見て「なかなかいいじゃん」と思ったらしく、数年後にミラーなど4バルブのエンジンが出てきました。ミラーは途中で潰れましたが社員のひとりだったオッフェンハウザーによってこの系統・形式のエンジンは長生きしました。本によってはミラーについて「プジョーをコピーした」と書いてあったりします。当時は他にもレイジョーとかフロンテニャック(面白い事にこのフロンテニャックのDOHCエンジンはフランク・サカヤマという日系人が設計しています)の様なアフターマーケットシリンダーヘッドや、あるいはメーカー系ではデューセンバーグなどDOHCだったり4バルブだったりするエンジンは少なく無かったのですが1940年代にはオッフィーを除いてその殆どが綺麗さっぱり消えてなくなってしまったのは実に興味深い事です。また、この頃のアメリカ大陸とヨーロッパ大陸との情報的距離は現在想像するよりずっと近かったらしい事も興味深く思われます。アメリカ人は思ったよりヨーロッパの事を知っていたし、英国を含むヨーロッパもアメリカに大いなる関心を寄せていたようです。この年代の本を読んでいると時々そう思わされる記述があります。


 ルーフのヘッドはプッシュロッドとロッカーアームを使用しており、クレイグ・ハントのヘッドはチェーンドライブのSOHCでバルブはロッカーアーム駆動だった。そしてモートン&ブレットはDOHCのヘッドだった。これらのレーシング・パーツは雑誌やレースプログラムの広告を通じてメーカーからレースをする人々に直接販売されていた。

 1930年代初頭、ジョージ・ワイトの「ベル・オートパーツ」ではフォードA型、B型エンジン用オーバーヘッド・バルブ・セットを販売していた。これは共にロサンゼルスを拠点とするジョージ・ライリー(George Riley)とクレーン・ガーツ(Crane Gartz/後のクレーガー:Cragar)の手になるものだった。そしてロサンゼルスのトレッドウェル・ストリート(TreadwellStreet)のエド・ウィンフィールド(Ed Winfield)の小さなショップで造られたウィンフィールド・キャブレターの販売もしていた。ウィンフィールドはレース用カムシャフトの削り出しもしており、またほどなくレース用同様、ストリート用カムの製作も手掛けるようになった。

 レース用に特別に造られたものでないエンジンパーツに関してはその土地のジャンク・ヤード(解体屋)がその入手先となった。いくつかのパーツは自動車ディーラーのパーツ部門で購入する事も出来たがこの方法は当時、全く満足の行かないものだった。パーツ部門のおっさん達はレースというものをてんで理解していなかったし、そこで手に入る部品は不景気の当時、レーサー達には高価過ぎたのである。

 多くのエンジンにおいてそのエンジンメーカーにとって一般的とは言えないクランクシャフトやコンロッドやキャブレターやその他色々なパーツが組み込まれるようになったのは人々がジャンクヤードを探索しまくった結果である。第一次世界大戦の頃のカーチスOX-5という飛行機のエンジンからはぎ取ったコンロッドですら使い道があった。例えばボブ・ルフィ(Bob Rufi)などは自分の速度記録用シボレー4気筒ストリーム・ライナーに使用する為に、このOX-5用のコンロッド4本に35セントを支払ったのである。

 エンジンやシャシー・パーツをジャンクヤードで調達する一方、「ミッドナイト・オートサプライ」(訳者註:原文 "midnight auto supply"。盗んだんでしょうね、パーツ類を)も相当な数量のボディ・パーツ類を供給した。本書のために色々と調べている段階で筆者がチャック・スパージン(Chuck Spurgin)にウィペット(Whippet)のラジエーターが当時のドライレイク・レーサーやスプリント・カーのビルダー達の間で良く愛用されていた旨を述べたところ、チャックいわく「1930年代のロサンゼルスにはオリジナルのラジエーターのままのウィペットなんてほとんど無かったね」との事であった。

(訳者註:Whippetとはジープを造り出す前のWillys-Overland Motorsが1926年〜1931年に亘って累計43,422台製作した安価な車だったそうです。しかし片っ端からラジエーターを盗まれた当時のオーナー達はいい迷惑だった事でしょう)


●Life at the Lakes
 チューンドカーの連中(原文"the hop-up artists")がスピード競技の為にその場所を使いはじめた頃にはドライレイク・レーシングでの競技において既にクラス分けはなされており、そしてこのクラス分けは永年の間にかなり変更されてきた。例えば1933年のミュロック・レーシング・アソシエーション(Muroc Racing Association)のプログラムによればそれは以下の通りである。

クラスA:時速70〜80マイル(時速112〜128キロ)
クラスB:時速80〜90マイル(時速128〜144キロ)
クラスC:時速90〜100マイル(時速144〜160キロ)
クラスD:6気筒および8気筒エンジン車
クラスE:モディファイド・ロードスター・ボディ
クラスF:時速100マイル以上のストック・ロードスター・ボディ

 参加車は事前に計測区間を走り、それぞれの出したスピードによって適切なクラスに振り分けられる。その後でマッチ・レース(訳者註:原文"Match Race"で『一騎討ち』という語感が近いのではないかと思います)が始まるのである。

 通常は2〜3台の車が、場合によっては5台くらいの車が後にドラッグレースと呼ばれる事になる競技を行うためにレース場に送り出される。しかしながら当時それは「ドラッグレース」とは呼ばれておらず、その言葉は例えば「ホットロッド」などの用語同様、後日になってそう呼ばれるようになったのである。

 マッチ・レースはレーサーそのものに劣らぬくらい観客に対して魅力的なものだったが、同時にそれは危険なものでもあり、彼らが多重衝突や怪我をしなかったのは奇跡だと言える。トップを走る車には何の問題も無い。しかし後に続くレーサー達は捲き上がる砂ぼこりの中を走る事になり、時にはあまりに厚い砂ぼこりのためにドライバーたちは自分たちがどちらに向かって走っているのかさえ定かではなくなる程だった。

 当時のドライレイクでのこうした問題に対しては1933年のミュロック・レーシング・アソシエーションのプログラムに掲載された下のような広告もたいして役には立たなかったのではなかろうか。

サーガス・カフェ
1898年創業
昼夜営業
ドラフト・ビール
レースの前と後にビールで景気づけをしよう!*
サーガス郡、カリフォルニア
*原文 "Beer Up Before and After the Races"。この広告を見る限り当時のドライレイクでは酔っ払いどもが集って危険きわまりないレースを展開していた可能性があります。




上は"When The Hot Rods Run - Muroc 1938"という古本で見かけた写真。クォリファイやレースの結果が悪かったのかあるいは逆に結果が良くて嬉しかったのかそれともただの飲んだくれだったのか良く判りませんが何にしてもミュロックにてビールを飲んで酔っぱらって寝てしまったの図。
 1937年11月29日にSCTA(Southern California Timing Association)が結成された後はマッチレースは中止になった。最初のSCTAミーティングは1938年5月15日にミュロック・ドライレイク(Muroc Dry Lake)で行われ、これが新世代のドライレイク・レーシングの幕開けとなったのである。

 車のタイプによって新たにクラス分けがなされ、そのクラスにはロードスター、モディファイド、ストリームライナー、無制限(Roadster, Modified, Streamliner, Unlimited)があった。「ロードスター」クラスは「ノーマルのロードスターのボディをまとっている事」というだけの物だった。「モディファイド」クラスは一人乗りでも二人乗りでも良く、通常はロードスターのコクピット部分を使用して運転席から後ろはボディなしのむき出しで良いがドライバーの後ろに少なくとも400平方インチのフラットなエリアを持っていなければならないという物だった(訳者註:写真などを見るとその部分には大抵ガスタンクを載せている例が多い様です)。「ストリームライナー」というのは尖ったテールか丸まったテールを持っていればどんな車でも良かった。そして「無制限」クラスはキャディラックやマーモン(Marmon)などのV16エンジンを搭載した車や、或いはスーパーチャージャーを搭載した車たちだった。

 初期のドライレイクでのレースにおける計時機器類は「手押し」のストップウォッチだった。ひとつはその車が1/4マイル地点に到達した秒数を記録するためのもので、もう一つはその車が計測区間を走り切るのに要した時間を記録するためのものだった。時が経つにつれて「手押し」のストップウォッチはワイヤー作動式のストップウォッチに取って替られる事となった。1/4マイルのスタート地点と到達地点の両方にコースを横切ってワイヤーを渡す。そのワイヤーは地面から2〜3インチ浮いており、車のフロントホイールがそれを踏むとストップウォッチが作動するというものであった。また、ガソリンスタンドで良く見かけるようなタイプの「ゴムホース」を使う方法も試されたがストップウォッチを作動させるのに空気圧を使うという性質上スピードの誤差が莫大なものとなったのでこの方法は長続きしなかった。



これも"When The Hot Rods Run - Muroc 1938"という古本で見かけた写真の部分拡大。当時の計測はシロウトにはうかがい知ることの出来ない摩訶不思議な方法によって行われていたようです。ゴール地点横に停めたトラックの荷台にこの計測器一式をのっけてスタート地点と無線?連絡をとりながら一生懸命タイム計測をしていたものらしい。
 1930年代中盤、ロサンゼルス市立大学(Los Angeles City College)機械科の若き学生、ウォルター・ナス(Walter Nass)はドライレイク初の電気式計時機器類を設計・製作した。ナスはレーサーではなかったしレーサー志望でもなかった。ただ友人のアーニー・クローバー(Ernie Clover)から自動車用の正確で信頼性の高い計時機器類を設計するように依頼されていただけなのである。ナスはこれを機械科の学生としてはやりがいのあるチャレンジだと考えて友人の願いを聞き入れた。

 ウォルター・ナスが設計・製作をしてドライレイクにおいてテストしたシステムは依然としてスタート地点とフィニッシュ地点の両方にコース上を横切るワイヤーを使用していた。但し機械的にストップウォッチを動かすのではなく、引っ張られたワイヤーは電気スイッチを作動させるというものだった。このスイッチがONになる事によって発生した電流がペーパー・パンチのソレノイドを動作させる。

 このパンチは直径6インチ(約15cm)の回転する厚手の紙ディスクに小さな穴を開ける。紙ディスクは一回の走行ごとに新しいものに交換され、それぞれの紙ディスクにはたった二つの「パンチ穴」という形で情報が記録される。すなわちその車が最初のワイヤーを通過したタイミングと二本目のワイヤーを通過したタイミングである。

 一方、放射状の目盛りの印刷された別の専用ディスクが用意されており、そのディスクとパンチ穴の開いたディスクを重ねる事によって二つのパンチ穴の距離から素早くかつ容易に所要時間がどれだけであったかを決定するのである。しかしながらこのシステムでもっとも重要な部分はシステム全体の精度を決定する温度自動調節式のセンサーであった。

 機械工学の学位履修のため南カリフォルニア大学に転校する事になったウォルター・ナスはこの計時機器類一式をSCTAに売却し、別の計時員があらたに計測を担当することとなった。このナスの造ったシステムは1938年5月からオットー・クロッカー(Otto Crocker)が計時員になる1940年6月までSCTAによって使用された。その後でSCTAはクロッカーの計時機器類に変更したのである。




●ストリート・レーシング
 個々のレーシング・クラブ(訳者註:原文 "each timing association")は通常ひと夏の間に三つから六つのドライレイクでのレースを転戦するのだがそれ以外の殆どの場合、つまりドライレイクにいない時のレーサー達はロサンゼルス界隈のいくつかの溜まり場のどこかで見つける事が出来た。その溜まり場の中でも最も有名なのは「クラブ・ミュロック本部」と呼ばれたビバリー・ブールバード7227番(7227 Beverly Boulevard)の「ツイン・バーレル」(The Twin Barrel)、そして「レース・ギャングの溜まり場/ドライレイクの写真展示中」と書かれていたサウス・ラ・ブレア1164番の(1164 South La Brea)「フライパン」(The Flying Pan)の二つである。

 これらの溜まり場は食事と共にお互いが知り合い、レース談義をする場所を提供した。そしてこの場所はストリート・レーシングの相手を探す場所としても機能した。 もし誰かがどこかのドライブイン(訳者註:原文 "eatery")でレースの相手を集められない場合は別のドライブインに移動して誰かやる気のある者を探す事が出来たのである。

 二台の車がたまたま隣り合ったというだけでいきなり始まる即興レースとは違って、これらの溜まり場のレーシング・クラブを主体として行われるレースはシリアスなものだった。金が賭けられる事も非常に多かった。時にはレースは「ピンク・ナンバー」(訳者註:原文 "Pink Slip")を賭けて行われ、負けた場合は車の所有権そのものが変わった。当時のカリフォルニアの自動車登録制度では、銀行の融資によって購入された車で所有権が銀行にある車には「白ナンバー」(訳者註:原文 "White Slip")が使われていたが、オーナーカーの場合はピンクナンバーが使われていた。 もちろん白ナンバーの車に関してレースが行われる事は無かったが、もしピンクナンバーの車に勝ったらその車を手に入れる事となったのである。

 最もポピュラーなレース場は以下の通りである。

・セプルベーダ・ブールバード(Sepulveda Boulevard)
サン・フェルナンド・ロード(San Fernando Road)の真南、ヴァン・ノーマン・ダム(Van Norman Dam)湖の隣。

・リンカーン・ブールバード(Lincoln Boulevard)
セプルベーダの真西、後にロサンゼルス国際空港となったマインズ・フィールド(Mines Field)の隣。

・フットヒル・ブールバード(Foothil Boulevard)
アルカディアのサンタ・アニータ(Santa Anita)競馬場近く。

・グレノークス・ブールバード(Glenoaks Boulevard)
バーバンク・シティ(Burbank city)西はずれ (そこはバーバンク市ではないのでバーバンクの警察はそこで行われるレースを取り締まる事が出来ずロサンゼルスの警察がはるばるヴァン・ナイズ(Van Nuys)の駐在所から取締に来なければならなかった)

・ペック・ロード(Peck Road)
エル・モンテ(El Monte)にあった。

他にも場所はあったが上記の場所が真直ぐで、平らで、路面が平坦で、交差点のない、最上の場所だったと言える。

 もちろん違法ではあったがこれらの場所でのレースはそこそこ安全なものだった。交差する交通のない事、そして殆ど、あるいは全く交通のない夜遅くにレースをする事によって大部分の危険を避ける事が出来たのである。一方で、上記以外の他の場所やあるいは日中に行われるレースは非常に危険なものとなった。

 スピード走行用パーツの設計者兼製作者として知られるフィル・ウェイアンド(訳者註:Phil Weiand/多分チームGなどのあのウェイアンドでしょう)も1930年代のストリートレースにおけるアクシデントが原因で下肢不自由の身になってしまった。彼のパワーアップされたT型フォードがとあるカーブにさしかかった時、助手席の男が「これは曲がれない」とパニックに陥って思わずパーキングブレーキレバーを引っ張ってしまった為である。これによって車はコントロール不能におちいり、車が跳ね上がった時に二人とも外にほうり出されてしまったのだ。


●のどかな日々
上は "When The Hot Rods Run - Muroc 1938" に載っていた当時のレースのエントリーリストの一部。タイプライターと手書きの至って簡素なものだが読んでみると当時のチューニングショップの広告や賞品の協賛広告などが中々興味深い。エントリーリストの人名を眺めているとディーン・バチェラーの言う通り当時から結構日系人のエントラントがいた様子です。フランク・モリモト(森本?)、ミノ・カミムラ(神村?)、ジミー・ミノベ(美濃部?)、ヤム・オカムロ(岡室?岡村?)兄弟、カール・ショージ(庄司?)、アーニー・ヒライ(平井?)ダン・サカイ(酒井?)などの名前を見つけることが出来ます。この中でも「ヤム・オカムロ(オカムラの間違いじゃないかと思うのですが)」は戦後もトップ・コンテンダーとしてホットロッド・ライフを継続したものらしく上のミュロックのレース・ミーティングのざっと10年後、下の写真の通り1948年当時の「ホットロッド」マガジンの「人物」のページに紹介されたりしてます。「ヤム・オカ」という通称だったらしい。「ヤムオカは柔道の黒帯でもある」なんて書いてあります。"The First 12 Issues of HOT ROD magazine" という本に載っていました。
 第二次世界大戦の間、全てのレースは中止となった。若物たちの時間と心を占めるもっと大事な事があったのである。それに例え時間があったとしてもガソリンの配給制とタイヤの配給制が青年達がレースをする事を許さなかった。

 戦争前、ウォーリー・パークス(Wally Parks)とエルドン・スナップ(Eldon Snapp)はSCTAのニュースレターを月刊で発行していた。これはガリ版刷りの機関紙で広報すべきクラブの行事やニュースの量によって4ページだったり6ページだったり8ページだったりした。「SCTAレーシング・ニュース」(SCTA Racing News)と呼ばれていたその機関紙は一部5セントで全SCTAメンバー当てに郵送された。

 パークスとスナップが戦争に行った時にはヴィーダ・オール(Veda Orr)が代わりにレーシングニュースの発行を担当し、穴埋めをした。1943年から1945年までに発行されたニュースレターはヨーロッパや北アフリカや大西洋戦線にいるSCTAメンバーからの手紙でいっぱいで、これらはこの自動車道楽や自動車仲間の結びつきを維持する役目をした。そしてこれらの人々が一刻も早く家に帰って車の無いものは車を造り、車のある者は一刻も早くそれでレースをしたがっているという事は明白であった。

 1930年代にドライレイクに行くと言う事は(ある意味第二次大戦後においても)そこで自分達自身のクラブ活動をしているようなものだった。人々はこれらのイベントの開催を待ち望んでおり、我々もこうしたイベントをひとつとして見逃さないようにあらゆる努力をしたものである。みんなと知り合った直後、そしてそれらの人々とまだファーストネームで呼び合う間柄になっていない時でさえそこにいる人々は簡単に識別できた。そして、もし競技に参加したいのならSCTAに所属するクラブの一つに加入すれば良い。

 その頃は私はまだ競技に参加していなかった。私はエンジンに「エーデルブロック・スリングショット・デュアル・マニフォールド」を装着しただけの1939年式マーキュリーを持っていた。1941年、ロッキードの飛行機工場で夜勤で働いている時、私は同じくそこで働いているウィル・ドノバン(Will Donovan)とフレッド・タイガー・ベイミラー(Fred "Tiger" Baymiller)と知り合いになった。フレッドはバンゴラーズ・クラブ(Bangholers Club)のメンバーで、ウィルはセンチュリー(Centuries)のメンバーだった。二つのクラブは両方ともSCTAの加入クラブだった。

 この二人は私にとって、南カリフォルニアのレースシーンで何が起こっているかを知る為のパイプラインで、次のレース・ミーティングがいつ、どこで開催されるのかを私に教えてくれた。残業がない限り夜勤は午前12時30分には終わった。土曜日の夜(実際には日曜日の朝)仕事を終えた後、私は家に帰って着替えてそして仲間のビル、チャーリー・ファリス、レイ・シャルボノー、そして時にはクラーク・ストーン、ジーン・サーバントといった面々を引き連れてマーキュリーで砂漠へと向かった。

 我々が住んでいたバーバンク(Burbank)を出発した後、午前2時か3時にパームデール(Palmdale)かランカスター(Lancaster)で朝食をとってそして朝の光の中を東のレイクに向かって走った。我々は大体日曜日の午後まで、あるいはレースが終わるまでそこで過ごしてから家に帰った。そして仲間を降ろしてから、私は自分のマーキュリーを洗車して次におしゃれな服に着替えてハリウッド・パラディウム(Hollywood Paradium)に向かってそこでどんなビッグ・バンドが演奏しているか見に行ったものだった。

 これは私が土曜日の朝から日曜日の深夜に至るまで起きっぱなしだったという事を意味しているが、当時の私は19才で身体も頑健だったので週に一度はそんな風にして過ごしていたのだった。

 当時私が良く見たのはトミー・ドーシー、ジミー・ドーシー、ハリー・ジェームス、ウディ・ハーマン、ジーン・クルーパ、グレン・ミラー(Tommy Dorsey, Jimmy Dorsey, Harry James, Woody Herman, Gene Krupa, Glenn Miller/いずれもBig Band Eraの巨人たちです)といったバンドだった。スタン・ケントン(Stan Kenton)は当時まだパラディウムには出演していなかった。スタンはニューポート・ビーチのバルボア岬にあったランデブー・ダンスホール(Rendezvours Ballroom)で御機嫌な演奏をしていた。

 カウント・ベイシー、デューク・エリントン、キャブ・キャロウェイ、アール・ハインズと言った黒人バンドがパラディウムにフィーチャーされて演奏すると言う事はなかった。これは黒人のエンターテインメントに関するロサンゼルス市の条例が何か関係があったのではないかと私は思う。いずれにしてもこれらのバンドの演奏が聴きたい時には我々はトライアノン、ミードゥブルック、オーシャン・パークといったダンスホール(Trianon, Meadowbrook, Ocean Park Pier ballrooms)に行けば良かった。

 戦前の私のドライレイクでの経験を思い起こすに、そこには偏見や社会的差別のようなものはなかったと思う。政治的問題、社会的問題を論ずるような場所では無かったのである。

 沢山の日本人と何人かの黒人の競争相手がいた。ヤマそしてハリー・オカ、フランク・モリモト、ダニー・サカイ、そしてメル・ライトンらの名前がすぐ脳裏に浮かぶ。そこに人種差別はなかった。人々は肌の色ではなく、車によって判断された。もし速い車に乗っていたらそれだけで人々に認められた。またもし滅茶苦茶速い車に乗っていたら人々に一目をおかれ、その場合その人物がどこの出身であるかという事はまったく問題にされなかったのである。一方で、もし君の車が犬並みの遅さだったら君は全く無視されるか、もしくは君が既にそこの人々と友人だったなら色々と助けてもらえた事だろう。

 大いなる時代だったしこうした環境の中で育ったという事も大いなる経験だった。今にして思えば我々は自動車キチガイに与えられた最高の環境の中でエンジョイしていた訳だが、残念に思う事は、当時の私にはその事がわかっていたとは思えないという事である。

右から三人目がフランク・モリモト
(この写真は本書 "The American Hot Rod" に載っています)



25 May 2001