19)「 本物のゴロツキの集団」/ホットロッドの50年

 ここでは雑誌 "Hot Rod" magazineの創刊当時の話を抄訳してみました。私はホットロッドのざっとした歴史が概観出来るとてもいい文章だと思いました。
出典書:
"50 Years of HOT ROD"
From the Editors of HOT ROD MAGAZINE
published by MBI Publishing Company
 この本は雑誌「ホットロッド」マガジンの創刊50周年を記念して1998年に刊行された本でその構成は、大きく50年代、60年代、70年代、80年代、90年代と五つの章に分かれています。但しどの章も主体はあくまで美しい写真たちで文章も多くなく、写真を眺めて説明書きを読んでいるだけで充分楽しめます。ホットロッドの歴史書というよりは「ホットロッド」マガジンを過去に彩った車達の写真集といった方が正しいです。その点、Dean Batchelor著"American Hot Rod"などとは対照的と言えます。
 この訳文は期せずして当HPの17)ダントフ・メモを読むの文章内容の逆証明となっており、両者を併せて読んでいただくとコルベット登場前の当時のアメリカの時代風景を考えるヒントとして興味深いものと思います。
 尚、この文章そのものを書いたのはトニー・サッカー(Tony Thacker)という人で、多分98年当時の「ホットロッド」マガジンの編集長ではないかと思います。
 この本は写真集としても手元に置いておく価値は充分にありますので興味を覚えた方はどうぞ原書をamazon.comなどでお求めになって是非続きをお読みください。

「ホットロッド」マガジンの50年


 そこにはまず初めに南カリフォルニアのドライレイクの表面を閃光のように走り抜ける車が巻き上げるアルカリ臭のする砂煙りと、そして熱狂とがあった。その時にはまだ「ホットロッド」マガジンはなかった。それは後からやって来ることになる。

 人々は車に魅了され、それによって個人的にそれを利用したり、生計を立てたり、スポーツをしたり個人的満足を覚えるというような社会を造ってきた。自動車にはそういったポジティブな面があると同時に、それは例えばハイウェイの渋滞、公害、事故といった問題ももたらした。だがもし人間がそもそも車を造った程利口ならば現在問題になっているそれらの事を克服するのは比較的簡単な技術的チャレンジに過ぎないと思える。

 車が好きな人々にとって自動車というものがどういうものかという事は、動力付きの乗り物をあからさまに嫌っている人には想像も出来ないだろう、例えどんな種類の車に乗っていようと、どんな種類のレースをしていようと。究極の車好きに「ホットロダー」(Hot Rodder)という人々がいる。ホットロダーには「車の性能をあげるため、もしくは見栄えを良くするため自分の車をモディファイする人」という以外にはこれといった確たる定義は無い。ヘンリー・フォードもゴッドリープ・ダイムラーもバーニー・オールドフィールドもすべてロニー・ソックスやドン・ガーリッツ、リチャード・ペティらと同様にこの定義にあてはまる。彼等はみな等しく、それぞれに車を改良しエンジンを改良するという同じ情熱を持っていた。

 初期のオーバルトラックは上の写真の様に木骨を組んで、その上に板材を組んでコースとしていたそうです。嘘みたいな本当の話。下の写真はそのボード・トラックでのレース風景。いずれも1920年代。現代のNASCARもびっくりの雲霞の如き観客の多さとその熱狂ぶりが印象的です。1930年代あたりまでのアメリカの車関係の本の写真を眺めているとダートや泥沼状など路面状況が劣悪の写真がとても多く、どうもアスファルトの鋪装というのが一般的になったのは我々が思っているより少し後の話の様です。だから当時のスピードを出したくて仕方のない大馬鹿野郎な人々はドライ・レイクやデイトナ・ビーチを目指したのでしょう(デイトナ・ビーチでは1903年には既にレースが行われていたそうです)。現在から見るとこのボード・トラックは随分奇妙なものに思えますが当時としては大真面目な選択だったと思われます。
 「ホットロッド」、「ホットロディング」、「ホットロダーズ」(Hot Rod, Hot Rodding, Hot Rodders)という言葉は自動車の進歩に伴って後から出てきた概念なので自動車業界では比較的新しい言葉といえる。「ホットロッド」という呼称はそもそもは1940年代初頭のカリフォルニアで花開いた言葉でこれは明らかに「ホットロードスター」(Hot Roadster)が短縮されたものである。しかしながらホットロディングと言えるものはすでに、20世紀初頭、車と言うものがこの世に生まれるや否や始まっている。レーサーたちはそこにもっともらしい理由がありさえすればいつでもボードトラック(訳者註:嘘みたいな話ですがごく初期のオーバルトラックのコースはアスファルトではなく木製のボードが敷き詰められていました)やハイウェイや海岸沿いの平地、そして鋪装されたオーバルコースに集まってきた。低コストで、作業性が良くてそして手に入れやすいT型フォードに人気があったので何百もの小さな会社がそれぞれT型フォード用のパーツを造るようになった。

 1920年には既に、自分の車の性能を少しでも上げたいと思うなら誰でも簡単に通信販売カタログを見て必要なパーツを注文する事が可能になっていた。この事は当然レース・イベントの急激な増加を促す事になった。競争が出来そうだと思われる場所さえあればいつでもどこでも「誰が一番速いかコンテスト」が開かれた。当時はストリートレースが現在ほど危険なものではなかったのである。一般市民も気にしていなかった。だが時がたって危険度が増すにつれて合法的にレースが出来る場所を見つけようという多くの試みがなされた。いい場所を見つける事が出来たものもいたがその多くは失敗した。というのも人は自分の車の性能を上げるチャンスを与えられると、クロマニヨン人の時代から人間の持っている競争心が頭をもたげ、物事を自分に有利に運ぶようにしようとしたからである。車が増え、それに関わる人が増えるほど事態は混乱した。

 ホットロッドのパイオニアたちは社会の色々な分野からやってきた人たちで、そのバックグラウンドも様々で金持ちもいれば貧乏人もいたが、その誰もがそれぞれ同じ興味を持って集まってきていた。つまり自分の車をより良く、より速く、そしてより長もちさせるという事である。

 ホットロディングの父親として知られるのは故エド・ウィンフィールド(Ed Winfield)である。ウィンフィールドはちょうど20世紀を迎えた頃に生まれ、そして彼の自動車に対する愛情はすでに子供の頃には明らかなものになっていた。ロサンゼルスの郊外で育った彼の最初のホットロッドはT型フォードの部品をベースにしたものだった。今を去る事約80年ほど前の事である。ウィンフィールドは自分の特殊な用途に対しては当時売っていたパフォーマンスアップのためのパーツ類は役に立たないという事、そして使えるものがあったにせよその品質は最悪でしかも注文してから届くまでにやけに長い時間がかかるという事に気付いた最初のひとりであった。ウィンフィールドの答えは一つ。自分に必要なものは自分で造るしかない。これが現在、アメリカ経済の中でも大きな部分を占めるスペシャルパーツ産業の誕生ともなったのである(訳者註:ホントにそんな大きな産業規模なんでしょうかね)。ただし過去のホットロダーたちはその事について考えた事も気にかけたことも無かった。彼等の関心は自分のマシンだけだった。初期のホットロダーたちは殆ど全て「アマチュア」で何ら金銭的見返りなど考えずにホットロッドを実践していたのである。

 デューセンバーグ、シボレー、ミラー、そしてフォード(Duesenberg, Chevrolet, Miller, Ford)と言った名前に代表されるファクトリーがレースと開発とを行うプロフェッショナリズムは確かに存在した。ファクトリーがレースに関与すると言うのは別段目新しい事では無い。自動車レース競技の始まったかなり初期の頃から自動車メーカーはレースに熱心で、現在よりも大規模にレースに関わっていた。「フォード:埃と栄光――レーシングヒストリー」(レオ・レヴァイン著)という本ではフォードのレースの活動を1901年から追跡しているが、その中にはヘンリーフォード自身が車をモディファイし、自ら運転している様子までが語られている。(他メーカーより速い)スペシャルカーを造る事が当時の至上命題であって、ルールなどと言うものは殆ど存在せず、車はしょっちゅう仕様変更されるのが常だった。自動車会社は車を売る為にはレース活動をすることが必要不可欠だと考えており、実際その車が速ければ速い程、客はその車が好きになったのである。

 アフターマーケット・パーツメーカーは今日同様、この(速い車が好まれるという)潮流の利益を享受し、ヒーロードライバーたちは自分達がパーツの性能を保証する事の価値をすぐ認識するようになった。

 他の場所で何が起こっているかというような事は全然気にしない南カリフォルニアのホットロッド部隊は発展し、理論的には疑問符のつくようなモディファイまで車に施すようになった。東海岸のファクトリーのプロたちと西海岸のアマチュアたちの間のコミュニケーション・ギャップは「無知と言うものはまことに幸いである」という言葉を証明することになった。日焼けしたエンスージアストの軍団はT型フォードの4気筒エンジンもしくはたまたま持っていたエンジンをいじり倒していた。そして走れる状態になるや否や、彼等はそれを持ち出してレースまがいの事をするのである。レースはどこでも、いつでも、そして何に対しても行われた。当時は公式なドラッグレースというものはなく、その手の競技は1930年代に入るまではその名前さえもなかったのである。

 カリフォルニアの地形にはドライレイク(塩乾湖)があった。これはアメリカの国土の西側に固有のもので車を全速全開で走らせるには理想的な場所だった。ドライレイクでのイベントはやがて月に一度、時にはそれ以上の頻度のものになり初期のホットロダーたちに長距離走行をする機会を与えた。ただ、こんにちのドライレイクにおける整然とした、安全志向でクラス分けされた、一度に一台しか走らない競技に比べて、初期のドライレイクにおける競技はこの上なく騒々しいものだった。もしそのドライレイクが20台並んで走るだけの幅があれば20台が、ヨーイドン、でスタートした。悲惨なのはトップを走る事の出来ない、トップについていくに足る馬力のない車に乗ったドライバーである。ドライレイクというのは埃っぽい事で悪名高い。そしてドライレイク上で他の車の後をついていくことは視界がゼロであることを意味している。当時の新聞にはドライレイクの不毛の土地で起こった悲惨な事故(訳注:原文"mass slaughter"、大虐殺)のセンセーショナルな記事がいっぱい載っている。そして「アウトロー」という汚名がホットロダー達に冠せられる事となった。今から40年ほど前にホットロダー達に向けられた怒りや嘲り、嫌がらせやホットロダー害悪論議がどれほどひどいものであったかについては現代のチョッパーモーターサイクルのライダー達でさえそれを理解する事は出来ないだろう。

 そんな世論を転換させる事となった希望の光はまず1937年、アート・チルトン(Art Tilton)によるS.C.T.A.(Southern California Timing Association)の結成に見られる。レースの運営と安全に関するルールの制定はドライレイクのレースの悪い面を一掃するのに大いに役にたった。とは言うものの、当時は殆どのジャーナリストがドライレイクに取材に来ようとはしなかったので(これに関しては今日も同様かも知れない)整然と行われたこれらのレースも新聞などで紹介される事はなかった。ストリート・レースというものは当時、そして今もなお、ホットロダーの存続を大きく脅かすものだった。SCTA傘下のメンバーの各クラブはボランティアパトロール隊を結成してストリートレースをやめさせようと努力した。ホットロダーは必ずしもストリートでレースする上ではSCTAのメンバーである必要はなかったのだが、そうした(非メンバーの)ホットロダーたちがその地域の一般市民にホットロッドに対する悪感情を植え付けたのである。

 第二次世界大戦参戦の脅威が現実的なものとなってきた頃、陸軍航空隊がカリフォルニアのドライレイクにやってきた。航空隊はその中でも最も有名なムロック湖を接収した。現エドワーズ空軍基地である。そして陸軍航空隊がムロックにやってきてから1〜2年のうちに以前ドライレイクでレースをしていた者たちがムロックに戻ってきたのだった。ただし今度はホットロッドの整備ではなく飛行機の整備をするためだったが。第二次世界大戦によってホットロッドは殆ど中止に追い込まれたが、ホットロダー達自身は軍から多くの事を学び、そして軍にも大いに寄与した。航空隊の有名なヘンリー・アーノルド(Henry Arnold)は戦争中、ホットロッド・ムーブメントの中からやってきた者たちの能力を保証して言った。「もし許されるならオレの飛行機を飛ばすために奴らをこのまま連れて行きたいね」

 第二次世界大戦が終わるとホットロダーたちは(航空機整備で)新たに獲得した技術と熟練とを故郷に持ち帰った。戦争に行っていたという事でこれらの元整備兵たちはうやうやしく遇せられ、そして彼らが行うホットロッドという奇怪な行為もそれほど悪意を持って見られる事もなくなった。突拍子も無いようだが、これがホットロッドが一般に認められるに至った理由である。歴史というものは常に奇妙な話に満ち満ちているのである。

 南カリフォルニアのホットロッドムーブメントに新しく参入してくる愛好家はすぐに増えた。戦争中、西海岸の出征港には実に多くの東海岸の若者たちが集まる事となった(訳者註:大平洋戦線への出征ポイントだったのでしょう)。戦後、そういった若者たちの内の何千人もが暖かい冬や澄んだ青空(今では昔話だが)、広々とした土地、そして勝手に取って食べても誰も怒らない見渡す限りのオレンジの木々を覚えていた。かくしてカリフォルニアへの人口集中が起こり、そして数は力となったのである。

 皮肉な事に、戦争中のクズ鉄収集運動が古い車だらけだったこの国を綺麗にしてしまった。そして戦後何年かはどんな車を買うにしてもそれはとても高価なものだった。車を持っている者は軍隊で習得した自分の機械知識・技能をその車を整備し、その性能を向上させるために使った。そしてカスタマイジングは芸術の域にまで到達した。ジョージとサム・バリス(George and Sam Barris)はカスタマイジング愛好家のヒーローとなり、ジョージ・サーニー(George Cerny)もバリスが商売をしている目と鼻の先でカスタマイジングショップを経営して大いに繁昌していた。サーニーの息子は現在もカスタムペイント業界で活躍している。カスタマイザーたちは例えばビック・エーデルブロックのようなトラディショナルなホットロダーから分派したものであり、それぞれのグループは例えばドライブイン・レストランでも住み分けをしていた。駐車場の片側はフェンダーのないクーペやロードスターがいっぱい停められており、反対側にはフェンダースカートのついたマーキュリーや1940年式フォードが停められていた。そして両者は決して交わる事はなかったのである。

 戦後、レースをする場所を見つける事はますます困難になった。これは南カリフォルニアの野放しの人口爆発によるところが大きい。ドライレイクのレーサー達はエル・ミラージュに戻ったがこの頃には技術も進歩してスピードも上がっており、比較的小さなこのレイクでのレースは既に危険なものであった。S.C.T.Aの創始者のアート・チルトンは戦後も故郷に戻らなかったがS.C.T.A.の組織そのものは堅調で、当時のS.C.T.A.専任の役員は若きホットロダーであり有能なオーガナイザーでもあったウォーリー・パークス(Wally Parks)であった。彼と仲間のS.C.T.A.のメンバー達はエル・ミラージュでレースをする事は安全性において問題があるという事を認識していた。そしてハイスピードで走る為の場所を探す内に、彼らはボンネビル・ソルト・フラット(Bonneville Salt Flats)に目を向けるようになった。

 しかしながらボンネビルは既に永年に亘ってAAA(American Automobile Association:アメリカ自動車協会)の認可制で他のレースに使われており、AAAはホットロダー達にボンネビルを使わせるのを快く思わなかった。彼らは我々ホットロダーにソルトレイクの上にいて欲しくなかったのである。勿論AAAがボンネビルを所有していたという訳ではなかったのだが、永年に亘り彼らがボンネビルにおける各種スピード・トライアルを取り仕切っていたため、いつしか彼らはソルトレイクシティの当局に強力な発言力を持つようになっていたのである。だがウォーリー・パークス、ボブ・ピーターセン(Bob Petersen)、リー・ライアン(Lee Ryan)、そしてその他のS.C.T.A.の代表者達が何度もソルトレイクシティに陳情に出向く内に先方の役人でガス・ベックマン(Gus Bechman)という味方を得るに至った。ベックマンはカリフォルニアにおいてホットロッド・ムーブメントが盛んである事を人づてに聞いて知っており、この話はユタ州にとってもいい事だろうと考えていた。ベックマンは何もない砂漠だらけのこの州において大人数のレース愛好家たちのグループが存在すると言う事は何か経済的な効果があるだろうと感じていたのである。

 ベックマンとS.C.T.A.のメンバー達はホットロダー達がソルトレイクを使えるようにするために一致協力しなければならなかったが、ついに1948年の後半には最初のボンネビル・スピード・ウィークを開催する許可がおりたのである。ところが皮肉な事に、この行事予定が発表されるとS.C.T.A.のメンバーの一部による反対運動が突然わき起こった。ソルトレイクの上を走る為にS.C.T.A.はレース用の保険金を支払わなければならなかった。また同時にオットー・クロッカー(Otto Crocker)に計時用機械一式のためのお金も支払う必要があった。S.C.T.A.の金庫は空っぽではなかった。実際にはS.C.T.A.の草創期においては会費を支払う会員が1,000人以上いた時代があった。だがレースをする為に長期間の休暇を取れないメンバーや遠征費用が出せないメンバーたちがボンネビルに行く事の出来る者たちだけの為に積立金を引き出す事に対して異議を申し立てたのである。そして不平不満、不正、使い込みなどがあったがそれらも最後には抑えられた。だがS.C.T.A.の金庫の金は失われてしまった。

 上の写真は若き日のボブ・ピーターセン(Bob Petersen)。下の写真が「ホットロッド」マガジンの記念すべき第一号の表紙。
 S.C.T.A.が新しい活動場所を探し求めていた時、そしてホットロッド人口が増えつつあったこの時に同時にボブ・ピーターセン(Bob Petersen)という若い男がこの世界に入ってきた。ピーターセンの父親はメカニックでボブは車とホットロッドに興味を持っていた。彼によれば『ホットロッド』マガジン発行に至る背景は以下の通りだという。

「私は車を造ってそいつらをいつも乗り回して遊んでいた。全然見栄えのするものではなかったけどね。ボブ・リンゼイ(Bob Lindsay:ボブ・ピーターセンの友人にして雑誌『ホットロッド』マガジンの共同創始者)と私は大いにホットロッドをいじり倒したものだった。雑誌を発行していたリンゼイの親父さんの助けを得て私とリンゼイは雑誌『ホットロッド』の第一号を発行した。我々はホットロッドに関して起こっている事をずっと見てきた訳だしそういう内容を雑誌にするってのはいいアイデアだと思ったんだな」

 「ホットロッド」マガジンの第一号は1947年に刊行された。かくしてピーターセンとリンゼイはやっとスタートラインについたのであるが、一方その頃ピーターセンはそれまでやっていたMGM映画の広告の仕事を失ってしまった。ピーターセンは「ハリウッド共同広告」に加わった。この会社でピーターセンたちは後に「マンツ・カーステレオ・カンパニー」を創立する事になるロサンゼルスからやってきた伝説的人物、「マッドマン」アール・マンツ("Mad Man" Earl Muntz)の広告の仕事を得た。

(訳者註:『マッドマン』アール・マンツという名は1940年〜50年代について書かれたアメリカの自動車の本を読んでいると時々目にしますが、そのどれにも『マッドマン』と書いてあるので相当な変人だったのだろうかと想像します。後に数少ないアメリカのスポーツカーの一つ、カーチスの製造権を買い取って販売をしたりしています。ピーターセンが関わった頃にはアール・マンツは中古車販売で名を成していたようです)

 ハリウッド共同広告は南カリフォルニア初の公式ドラッグレースを開催するべく計画を進めていた。その計画によれば最初はホットロッドの自動車ショーを開催してその収益金で「アール・マンツ・ドラッグレース」を開催するという事になっていたのだが、色々な障害があって結局マンツのドラッグレースそのものは開催されるに至らなかった。だが自動車ショーのアイデアはそのまま進行し、そして1948年、ピーターセンとハリウッド共同広告、そしてS.C.T.A.の三者は合同でこの自動車ショーをプロデュースした。このショーは収益という点において、そして人々にホットロッドというものを周知せしめるという点において恐ろしい程の成功をおさめた。ショーに集った一般の人々がカスタムカーやホットロッドのクォリティやエンジニアリングのレベルに目を向け、そしてこれらの車を造って乗っている人々にあらためて目を向ける余裕が出来た時、ホットロダー達は社会で認められる存在となったのである。S.C.T.A.は大きな広告効果を得たばかりかこのホットロッドショーから収入すら得たのである。この三者が合同でショーを行う事によってそれぞれが単独で活動したのでは到底得られない程のセンセーションを巻き起こす事となった。ピーターセンがホットロッド・マガジンの仕事をしつつ同時にハリウッド共同広告の一員であるのを見て、ビジネス上のパートナーの中にはピーターセンはどちらか一方に専念するべきだと考える者もいた。

 「ホットロッド・マガジンを始めたのは私とリンゼイだから私は彼らにこの雑誌を代表するのは私しかいないと言った。だが彼らはそれはお粗末な雑誌じゃないかと言い、そのうちの三人までが『もし君がその雑誌をあきらめないのなら我々が君のかわりにこの自動車ショーは我々が開催したい』と言った」

 ピーターセンが上の様な事情を打ち明けたのはつい最近の事である。(後から考えれば)結局、事態は彼にとって良い方向に進むことになるのだが、その時点ではまだ彼には将来的な見通しは立っていなかったのである。ピーターセンとリンゼイは各々200ドルずつをこの雑誌のために投資して、「ホットロッド」マガジン第一号は10,000部印刷された。

「我々はレース場にホットロッド・マガジンを持って行って、車の写真を撮影する時以外はドライレイクのスタンドでその雑誌を売ったものだった。夜には(ホットロッド・マガジンの読者となる人を探して)L.A.近辺の全てのドライブインを訪ねて回った。その為にはドライブインに行くごとに自腹を切って飲食代を支払わなければならなかったがね」

ピーターセンの話は続く。

「我々のホットロッド・マガジンはL.A.近辺の会社で印刷されていた。その会社の印刷機オペレーターの中に競馬が大好きな男がいたがそいつはいつも負けてばかりいた。そいつは競馬で負けが込むと私に電話をかけてきては金をせがむんだ。その見返りとして奴さんはホットロッド・マガジンを何百部か余分に印刷してくれて、余分に使った紙に関しては「ヤレ紙」(訳者註:原文"waste" /印刷につきものの損失分の事)として伝票処理をしてくれた。それは我々の共通の秘密だったが、まああの時代は誰もがその程度の規則違反はやっていたね。特に私は自分達の支出を抑える為なら何だってやった」

 1948年において「ピーターセン出版」(Petersen Publishing)はアメリカの出版業界においては脅威でも何でもなかった。

「我々には絨毯を敷きつめたオフィスもなかったし甘い香水の匂いのする秘書もいなかった。そして我々は出版業界のパーティの招待者リストには絶対入っていなかった」

 現在でこそ我々「ホットロッド」マガジンのメンバーはそこで歓迎され、受け入れられているのだが、ボブ・ピーターセンは「ホットロッド」が初めて「インディアナポリス500マイルレース」に遠征した時の事をこう回想する。

「我々は『アウトロー』だと見なされていた。AAA(American Automobile Association:アメリカ自動車協会)の連中は我々の事を嫌っていて、我々の事を本物のゴロツキの集団だと思っていた(訳者註:原文" a bunch of real bad guys"/笑えます)。我々は『ホットロッド・マガジン・スペシャル』という名のウェイン・GMCエンジンの車でレースに参加した。ドン・フランシスコ(Don Francisco)とウォーリー・パークス(Wally Parks)がチームのメンバーだった。レースのオフィシャルたちはずっと我々の車から『ホットロッド』という文字を消し去ろうと懸命だった。彼らは自分達の主催するレースにおいてどの車であろうと「ホットロッド」という文字が描いてあるのが許せなかったという訳だ。彼らとはいつもトラブルばかりだった。また後日、アレックス・ジィディアス(Alex Xydias)とディーン・バチェラー(Dean Batchelor)がデイトナビーチを走る為に『ホットロッド』の文字を書いた我々の車を持ち込んだ。ビル・フランス(訳者註:Bill France/NASCARの創立者)の部下達は我々に観客に見える側の『ホットロッド』の文字を消すように命じた。いずれにしてもその車はクラッシュしてしまって結局その時はみんな『ホットロッド』の文字のある側から写真を撮る事になったんだがね」

 1948年当時の「ホットロッド」マガジンの若さと熱意に溢れる誌面。ここでは1948年のエル・ミラージュにおけるS.C.T.A.主催のレースにおいてヒルボーンという人物がストリームライナークラスにおいて時速150.5マイル(時速約240キロ)を達成した事などがレポートされている。レポーターはウォーリー・パークス。訳文中にも出て来たアレックス・ジーディアス(キシディアス?)の名前なども認められる。
 「ホットロッド」マガジン第一号発刊から2〜3年の後、ボブ・リンゼイはピーターセンの元を離れる事になった。彼がピーターセンと共にいた間に雑誌「モーター・トレンド」(Motor Trend)が発刊され、そして1949年10月、ウォーリー・パークスが初の「ホットロッド」の編集長となった。「ホットロッド」という名前、用語は既に価値のあるものになりつつあったが、ピーターセンの協力者の多くは社会的な体面もあるからこの名前にこだわるのはもう止めにした方がいいと強力に主張した。だがピートは既に全国的に知られるようになったこの名前と共に生きて挑戦を続ける方がいいと決心した。彼にはこのホットロッドというムーブメントをメジャーなスポーツにする為には自分が何かをしなければならないのだという事が判っていたのである。

 S.C.T.A.がボンネビルに移動した後も、そこに行けなかったレーサーたちはそれでも何かレースがしたいと考えていた。これが非公式ではあるがドラッグレースの誕生の元となった。ホットロダーたちは何年もそんな事はやってきていたので、静止したスタンディングスタートでレースするという事自体は何ら目新しいものではなかったが。

 最初の「公式」(ストリートではないという意味である)ドラッグレースがどこで開催されたかという事については長い間論議されてきたところである。これについては更に論争に火をつけることになりかねないので我々としては現在知られている最古のドラッグレースはひとつはロサンゼルス北部のサンタバーバラ(Santa Barbara)近郊のゴレタ空港(Goleta airport)で、そしてもうひとつは現在はジョン・ウェイン国際空港として知られるカリフォルニアはタスティン(Tustin)の古い飛行船基地で行われたと言うにとどめたい。確実な事がひとつある。1950年になる前には既にドラッグレースをする場所が不足していてドラッグレースの用地確保の為に様々な動きがあったという事である。だが一般市民の側はホットロダーたちのこうした嘆願に対しては冷淡だった。ホットロダーというのは自分自身や周りの人々を滅茶苦茶にする事に熱中している明らかに無責任なバカ者どもだった(と思われていた)からである。1950年の夏、ようやくC.J.ハート(C.J. Hart)とフランク・スティルウェル(Frank Stillwell)が現ジョン・ウェイン空港において最初の合法的ドラッグレースを主催した。賞金はなし、(レギュレーション的にも)明らかにやかましくて危険な車たちが除外された程度のものだった。だが、その時点では誰一人として認識していなかったが、このイベントこそがホットロッドというものをボンネビルやソルトレイクの上だけでなく、あるいはアメリカのカリフォルニアだけでなく、世界中で楽しめるスポーツにしたもとはじまりとなったのである。

 ロバート・E・ピーターセンは何がホットロッドに対する風向きを変えたのかについてこう回想する。

「大きな理由は二つ、ボンネビルとNHRA(National Hot Rod Association)だ。ウォーリー・パークスは1951年にNHRAを組織した。それは彼が『ホットロッド』マガジンの編集長だった時で彼はバド・クーンズ(Bud Coons)や後に1954年から1955年にかけてNHRAのセーフティ・サファリ(訳者註:NHRAが当時行った正しいドラッグレースの広報/啓蒙活動の様です)をやったエリック・リックマン(Eric Rickman)などの部下全員と一緒にそれをやった。これは『ホットロッド』マガジンとホットロディングというものに対して最大の出来事だったね。彼らはレースをオーガナイズし、そしてより多くの人々が『ホットロッド』マガジンやこのスポーツに大いに興味を示しはじめた。我々は色々な市民団体に自分達を売り込みに行かなければならなかった。特にここロサンゼルスでは国家安全協会(National Safety Council)とPTAを相手に大いに戦ったよ。そう言えばPTAに小さな上品な婆さんがいて彼女に私は気に入られたんだが ---彼女は私の事を可愛い坊やくらいに思ってたんだろう--- 彼女には助けられたね。また当時は沢山の仲間に助けられた。今もその人たちは私の周りにいるけどね。ウォーリー(パークス)やアク・ミラー(Ak Miller)、エリック・リックマン、バド・クーンズ、そしてリー・ライアンといった人々の事だ。彼らの立居振舞い、身なり、行いなどは交渉相手のホットロッドと無縁な人々を本当に驚かせたものだ。相手は『ホットロッドのゴロツキの奴らが相手の交渉だからな』と、当然予断をもって身構えていた訳だからね。みんな本当に私を助けてくれた。それ以来彼らがずっとうまくやってきているのを見ると嬉しくなるね」

 1948年当時から「ホットロッド」マガジンにはセクシー・ピンナップのページがちゃんと用意されていた。この写真はそんなピンナップ・ガールズのひとり、ペニーちゃんである。彼女が手にしているのは「フル・レーシング・カム」だそうです。恐らくこの時代ではぎりぎりのセクシーショットではないかと思われます。それにしても創刊早々、読者欄から技術解説記事、ハウツー記事、カーツーン、広告記事などを精力的に集めた上にセクシーピンナップのページまで用意したピーターセン氏とその仲間の諸氏の熱意には素直に尊敬の念を抱くより他はありません。ただ惜しむらくはピンナップ・ガールズに関して言えば総じてブスでスタイルの良くないのが多い。予算の都合か。
 ホットロッドの様な人気のある事柄についての情報は人の口から口へと素早く伝わる。初期の何号かの「ホットロッド」マガジンはレーストラックで売られていたのだがその後この雑誌には合衆国全土で売られる道が開けた。すぐにこの国の津々浦々から「どうやったらこの雑誌を入手出来るのか?」という問い合わせの手紙が殺到したのである。ピーターセンは当時を回想する。

「我々は配本体制というものを持っていなかったからとにかく『ホットロッド』マガジンをどこにでも郵送した。そしてある者はスピード・ショップに行き、残りの者は大都市の新聞売り場(ニューススタンド)に行った。そして我々にとって余り馴染みのないそうした場所に我々の雑誌を置いて貰った後、次に我々はハリウッドの大きなニューススタンドに持って行って50部程を置いてきた。そこのオーナーは『まあせいぜい売ってみるよ』とは言ったものの余り積極的には見えなかった。だがほんの一日かそこら後に彼は『おい、全部売れちまったぞ。もっと持ってきてくれ』と電話をかけてきた。すぐさま我々は町中の大きなニューススタンドに『ホットロッド』マガジンを持って行った。もしニューススタンドの経営者が売れないのでは無いかという顔をしたら我々は『ハリウッドのあそこのニューススタンドに電話して聞いてみてくれ、そうしたらこの雑誌がどれくらいよく売れるのかわかるはずだから』と言ったものだ」

 以来半世紀が経過して『ホットロッド』マガジンも600号を数えた今、我々の脳裏にはこの雑誌の50年分の偉大なるストーリー、写真が次から次へと浮かぶ・・

レイク・カー(lake cars)、ベリー・タンカー(belly tankers/ずん胴型ストリームライナーの事か?)、ワイド・ホワイト(wide whites)、ロードスター(roadsters)、スキャロップ(scallops/貝殻みたいな格好をした車の事か?)、スピード記録(speed records)、革新的なエンジン(innovative engines)、アーリー・フロッパー(early floppers/全く何の事か不明)、水着のおねーちゃんたち(swimsuit gals)、バン(vans)、ミューラル(murals/バンの横などに描かれた絵の事か?)、音楽(music)、ジェットカー(jet cars/古いホットロッドマガジンを眺めていると結構古くから、少なくとも1948年には既にジェットカーは存在していたようです)、炎の紋様(flame jobs)、ストッカー(stockers)、マッスルカー(muscle cars)、映画(movies)、プロ・ストリート(Pro Streets)、レスト・ロッド(rest rods)、ラスト・ロッド(rusto rods)、そして全ての『ホットロッド』マガジン・プロジェクト・カーたち・・。随分波瀾に富んだ道のりではないか!

 これらのイメージを回想する時に我々が認識するのは『ホットロッド』マガジンは単に車に関するのみではなく、同時にそれに関わる人々についての本でもあったのだという事実である。しかしながら、ホットロディングと『ホットロッド』マガジンの永年にわたる成功に貢献してきた全ての人々の中でも最も重要な人々は、実はその名前もその顔も殆ど『ホットロッド』マガジンの中で見る事は出来ない。なぜならそれは読者諸兄のみなさんだからである。

 真にこのホットロッドというトレンドを造り、ニュースを提供し、そして常にホットロディングを新しい方向に動かしてきたのはあなたがた『ホットロッド』の読者諸兄たちなのである。もしあなた方がいなければこの50年続いた我々の道のりも実は最初の1号で終ってしまっていたに違いない。我々の望む事は、これまで我々がみなさんと共に歩んだ年月にそうであった様に、読者の皆さんが『ホットロッド』マガジンによって発奮し、やる気をおこし、高揚して、情報を得て、そして楽しんでいただきたいという事である。

我々は次の50年間も続けるに値する雑誌を造り続ける。どうか御期待いただきたい。

以上、ご精読に感謝しつつ

トニー・サッカー(Tony Thacker)




7 May 2001