10) コルベットのボディを何で作るかについてのドタバタ劇
Making Corvettes Out of Fiberglass!



 C1コルベットはモトラマでの評判が余りに良かったため急遽1953年に製造開始することになったと言われていますが、以下の文章からはその時のGMの混乱ぶりがうかがえて興味深いです。出典は

"Corvette-America's Sports Car"
by Randy Leffingwell

です。興味を覚えた方はどうぞ原書をamazon.comなどでお求めになって是非続きをお読みください。


それは突如として始まった
1953


1953年2月5日、冬のまっただ中のこと、ロバート・モリソン(Robert Morrison)はいらいらしていた。彼はオハイオのアシュタビュラからGMのシボレーディビジョンの副購買担当者であるカール・クライン(Carl Klein)に会うためにやって来たのだった。

 「私は1937年以来ずっとフォードのディーラーだった」とモリソンは回想する。「で、商売にちょっとした不満があったので1948年頃フォードの仕事から手を引こうと決めたんだ」。彼は自動車業界以外のところで何かいい仕事はないかと考えた。彼は言う、「で、他の何人かの出資者といっしょに『アシュタビュラ産業』という会社を設立した。モノを造る会社に必要な工場用地と建物を供給する会社だね」。

 モリソンがその会社を始めた頃に土地と建物を世話をしたあるテナント(その会社ではプラスチックで強化された成形ガラスを製造していた)が事業に失敗したのでモリソンとそのパートナー達はその業績の思わしくない工場の仕事を引き継いだ。そしてモリソンは一年たたぬうちに事態を一変させた。彼は「ワンダー・ブレッド」というパン工場のために数千ものファイバーグラス成形のパレットを供給したのである。彼はその仕事をトレイ製作部門として独立させた。アシュタビュラに12個のプレス成型器を、そしてペンシルバニア州境をまたいだラインズビル近くの周辺工場に10以上のプレス成型器を持ってモリソンは多忙だった。

 その頃モリソンとパートナー達は自動車業界参入についても相談したが、決して悲観論ではなく、自動車業界の大きさに比べれば我々は小さすぎるという結論となった。そんな話をしていた頃、1952年の晩秋の事だがGMのフィッシャーボディ組立工場から何人かのエンジニア達がモリソンに会いにやってきた。エンジニア達は100をちょっとこえる位のパーツの図面を携えていた。用件はモリソンの「モールデッド・ファイバーグラス・カンパニー(MFG)」はこれらのパーツを製作する事が可能か?可能ならどれくらいの期間で出来るのか?コストは?数量は?というような事だった。

 「イエス、我々はすべての図面の部品を造ることが可能です」とモリソンは彼らに言った。が、「フィッシャーボディのエンジニア達が帰った後は何の音沙汰もなかった。数週間後に我々が彼らの元を訪ねるとどうもそのプロジェクトは中止になったという話だった」とはモリソンの弁。

 数カ月後、1953年の新年あけてすぐモリソン宛に電報が送られてきた。そこには「今週末、ニューヨークのウォルドーフ・アストリア・ホテルに行かれたし。ディスプレイをご覧になられたし」とあった。

 「我々は行かなかった。予算が厳しかったからね。そして我々の誰もそこに何があるのか知らなかった」とモリソンは言う。

 「結局そのダンスホールにはシボレーのファイバーグラスで出来た新しい2シーター・スポーツカーがあったという訳だね。GMはその車や他のいくつかのプロトタイプを見せるために招待したゲスト達の会話を聞くために車と一緒にマイクロフォンを仕込んでいたんだな。『可愛いわ』とか『こんなのが欲しかったんだよな』なんて言ってるのが聞こえたらしいよ」

 「で、月曜日にシボレーから連絡があった。明日お宅の工場設備を見学にお邪魔してよろしいですか、と言うんだな」

 プロジェクトエンジニアのカール・ジャクスト(ヤクスト? Carl Jakust)とそのボスのE.J. ジム・プリモ(E.J."Jim" Premo、シボレーディビジョンの主任ボディ技術者)の二人は吹雪の中、単発エンジンの飛行機に乗ってモリソンの30,000平方フィートの工場に現れた。「時間がないんだ」と彼らは言った。以前フィッシャーボディのエンジニア達が既にモリソンにプランを示していたというのに、このシボレーのボディエンジニア達はモリソンの工場のファイバーグラスのプレス器のサイズをいちいち採寸しだした。彼らは彼らのパーツをモリソンの工場設備に合うように設計しなおすつもりだったのである。

 「そんな事は意味がありませんよ」モリソンは彼らに言った。「ここにあるプレス器はどのみちフル稼働中だしね。我々は新しいプレスを買いましょう。この仕事にぴったりのヤツをね」

 またモリソンはそれらのパーツを彼自身の手によって設計し直す事を提案した。それによってパーツがカタチ良く成形されるばかりでなく、同時により強いものにすることが出来るという訳である。それでもジャクストとプリモは少しばかり不安を感じていた。MFG(モリソンの会社)はシボレーの要求水準を満たすだけの能力があるのか?これは大いなる疑問だった。シボレーは若者の市場をフォードに奪われていた。戦後のフォードの車はV-8エンジンを載せていた。シボレーがいまだに鋳鉄製の "Stove Bolt" (ストーブボルト)と呼ばれる6気筒エンジンを載せているというのにである。フォードはコンバーチブルも持っていた。シボレーはこの2シータースポーツカーを一刻も早く、可能な限り早く世に出す必要があったのである。それには1日に50台の生産が必要であった。

 そしてジャクストとプリモがモリソンのところを訪れてからまだ一ヶ月経過していない2月5日の火曜日の午前9時、モリソンは(購買担当者の)クラインに会うためにアシュタビュラから車を運転してやってきた。シボレーの人間が「コルベット」と呼んでいる車を形造る103点のボディパーツを12,300セット造る方法についてディスカッションするためであった。GMは18カ月分以上パーツ供給が確保出来なければならなかったのである。

 だがタイミングがいかにもまずかった。朝9時の時点でクラインは出かけてしまっていて一日戻らないとの事だった。モリソンはクラインの上司で上級購買担当者であるエド・ファーバッチャー(Ed Furbachar)に会いたい旨を告げたが彼も又一日外出しているという。モリソンは自分はいい加減待たされ過ぎたと感じた。

 モリソンは言う。「『上等だ』と私は言った。『彼らが私と会う予定を立てたんじゃなかったのか?』と私はカッカしていた」

 彼は怒りにまかせてエレベーターのボタンを押した。エレベーターのドアが開くとそこからシボレーの主任購買担当者で今日会えなかった二人の上司であるエルマー・ゴームセン(Elmer Gormsen)が出てきた。ゴームセンとは前回モリソンがGMのビルにやってきたときに既に面識があった。ゴームセンはすぐさまモリソンに時間はないかと尋ねた。

 モリソンは街の反対側にあるカイザー・フレーザー社(Kaiser-Frazer)で昼食をとる約束をしていた。MFGはカイザー・ダーリン(Kaizer-Darrin)スポーツカーのために10種のパーツを供給していたのである。だがゴームセンの様な人物のためならモリソンは午前中いっぱい空けることを厭わなかった。

 ゴームセンは一直線に切り出した。「我々はコルベットのボディを鉄以外の素材で造ることを決定した」
「何だって……」とモリソンは思った。「この業界に一日に50台のコルベットを造るに充分なキャパを持った設備を持ってる奴なんかいる訳ないじゃないか」

 しかしながらモリソンはその事を口に出しては言わなかった。オゥエンス・コーニング(Owens-Corning)の会長、ハロルド・ボーシェンスタイン(Harold Boeschenstein)はモリソンの友人でありMFGの熱烈な支持者だった。

「私は既に必要ならオゥエンス・コーニングが私をサポートしてくれるという約束を口頭で交わしていたので私はゴームセンにペンシルバニアのミードビルにある使用可能な大きな工場について話した。我々はすぐにでもその工場を押さえることが出来るってね」

だがゴームセンはついにその場では確たる返事をしなかった。モリソンはドアに歩みつつ、もし何か状況が変わったらいつでも連絡が欲しいとゴームセンに伝えた。

「私はドアの外に歩み出て思ったね。『何てこった。もうこの話は終わりだな』ってね」とモリソンは言う。

 モリソンの午後の予定はカイザー社のエンジニア達と各部品のフィット具合とフィニッシュについてチェックをするうちに夜にまで及んだ。モリソンはカイザーのエンジニア達を夕食に招待した。カイザー社での長い打ち合わせではあったが、しかしながらそれは殆ど実りのない物であった。カイザーは部品を500セット注文していたがモリソンは自社の人間に「ゆっくりやればいい。100セット造ったらひと休みしろ。決してそれ以上造るな。どうも500という数字自体根拠が薄いという感じがするからな」と警告した。

 モリソンは失望をかみしめながら夜8時半頃にデトロイトを離れた。彼はペースを上げることなくゆっくりとドライブした。
 「私は夜中の1時半に家についた。すると妻が起きてきて言うんだ。『デトロイトから電話をかけてきた人がいたわよ。どんなに遅く帰ってきてからでも構わないからとにかく電話が欲しいんだって』。それで私はメモしてあった番号に電話をしたらそれはエルマー・ゴームセンだった。彼は笑ったような感じでこんなに遅くに電話をもらうほどの用事じゃないんだがと言いつつも私がもう電話してしまったので彼はこう言ったのさ。『やってくれたまえ。その工場を取得してくれないか。だってもう我々はコルベットはファイバーグラスボディで行くと決めてしまったのだからね』ってね」

 かくしてロバート・S・モリソンは自動車ビジネスにカムバックした。MFGは四百万ドルの契約を取り交わした。シボレーは最初に6月1日より前にボディパネルを300コンプリート・セット納入するよう要請した。
 その夜はモリソンの子供達にも一生を通じて忘れ得ない夜となった。モリソンの息子、ロバート・ジュニアは1953年の2月5日の深夜(2月6日の朝)が彼とその妹がシャンペンを味わった最初の夜だったと回想している。