23) 1956年、デイトナビーチにおけるコルベット

今回は使命感に燃えたゾラがデイトナビーチをコルベットで走った時の話です。

出典書:
CORVETTE RACERS
by Gregory Von Dare
published by Motorbooks International
Rating:  
 1956年、コルベットがアメリカ人に「スポーツカーである」と認められるきっかけとなった明解な出来事がふたつありました。そのひとつは「デイトナ・ビーチ」におけるスピード・アテンプトであり、もうひとつが「セブリング12時間レース」へのエントリーです。ここでは「デイトナ・ビーチ」の方について前回に引続き同書から(というかこの本は一昨年くらいから度々訳していますが)抄訳してみました。
 この本を読めばコルベットがいかにしてスポーツカーとしての評価を勝ち取って行ったかという軌跡を辿ることが出来ます。興味を覚えた方はどうぞ原書をamazon.comなどでお求めになって是非続きをお読みください。


●1956年の新デザイン
 だが1955年式コルベットのV8はそれでもなお一時しのぎのものでしかなかった。シボレーのスタッフにはフォード・サンダーバードのシックな外観と強力な性能に対抗するには単に馬力だけでは不充分であるという事がわかっていた。そしてハーリー・アールに率いられたシボレーのデザイナーたちは1956年式コルベットにおいて全く新しいデザインのボディを造り上げたのである。それは自動車史上もっとも優美で印象的なもののひとつであった。

 それまでの年月においてはこのロードスターのデザインは少しずつ変化していただけだったが、1956年式においてそれは今や円熟したデザインの堂々とした、完璧なものだった。ヘッドライトはこれまでと違って、いわばメルセデスの300SLの様な感じで直立したデザインとなったがそれでもこの車の顔は間違い無くコルベットであった。リアビューを見てみると従来のリアウィングと小さなロケットは取り去られてトランクラインはより洗練されたものになっていた。面白い事にテールライトは初期型コルベットのヘッドライトのようなボディラインに埋め込まれるような形になっていた。1963年にスティングレイが登場するまで、この特徴あるボディスタイルはちょっとした化粧直しをされただけで以後ずっと続く事になる。

 この新しいボディと進化したV8エンジンに合わせてシャシー側にも同時にいくつかの変更が加えられた。ハンドリングを向上させるためにフロントのキャスターは2°大きくされた。これはフロントのクロスメンバーとフレームの間にシムを挟み込む事によって実現された。

 このキャスター変更の副産物として車体がロールした時のフロントのオーバーステアが少なくなった。バランスを取る為にリアスプリングのマウント位置を変更する事によってリアのオーバーステア特性も少なめにされた。このモディファイにより、従来のシャシーに比べてリアリーフはより水平に近いものとなった。この新しいボディは新しい265キュービックインチ(4340cc)のV8エンジンとあいまって、1956年式コルベットにフロントに52%、リアに48%というフロントエンジンの車としては極上の重量配分を与える事になったのである。


●そしてゾラとコルベットはレースに行った
↑1955年9月9日、パイクスピークにて「いっちょうブチかましたるかい」と不敵な笑みを浮かべるゾラ・アーカス・ダントフ。ゾラの伝記類を読んでいると優秀な技術者である事は確かなのだがそれよりも「ただの冒険好きのおっさんではないのか」という印象を受ける時がある。この時多分45歳。ベルギー、ロシア、ドイツ、フランス、アメリカなどを渡り歩いたその人生は波乱と冒険に満ち満ちている。
↑プレ1956年式モデルでパイクスピークを砂煙を上げて力走するアーカス・ダントフ。ドリキン土屋圭一も真っ青である。「あんな勢いで走って谷底に落ちたらどうしようとか思いませんでしたか?」というジャーナリストの質問にゾラは「うんにゃ、全然」と答えたと言う。結局この時出した記録はベルエアの評判および販売に絶大な効果を与えたため、これによってゾラを含めたシボレーの人々は「やっぱ派手に記録をブチかますと車は良く売れるんだな」という確信を深める事となった。売れ行き不振に悩むコルベットだったが「ここらでいっちょう派手な花火をブチかませばこの車は売れるようになる」とゾラが考えたのも自然な成りゆきと言える。ところで上の写真の車、実はFRPボディ。「これでストックと言っていいのか」と一部で疑問視する声もあったというが結局「うぉー、今度のシボレー、すげー!」という一般大衆の声にかき消された。
↑これは1956年のスピードトライアルのうち、1月の方。カラーリングが違う事から識別出来る(2月のトライアルでは白ボディに青ストライプ。アメリカのインターカラーである)。間違えやすいのだが、シボレーは1956年の1月と2月の都合2回、コルベットのスピードトライアルを行っている。

1月はシボレーが行った行事で、記録の中立性を保証する為、計測そのものはシボレーが第三者であるNASCARに依頼したもの。この時に150.58mph(241.53km/h)を達成した。2月の「デイトナ・スピード・ウィーク」のテスト走行という意味合いもあった。

2月はNASCAR主催の「デイトナ・スピード・ウィーク」にシボレーが参加して速度計時をしたもの。この時は実は150mphは出せなかった。

1月のトライアルにおいてダントフが理想的なコンディションではないにもかかわらず記録に挑戦したのには、ひとつにはニューヨークでの「モトラマ」モーターショー開催が迫っていた、という事情があったらしい。
そこでは大幅にモデルチェンジされた1956年式コルベットも並べられる手はずだったが入場客に「ああ、格好だけでちーとも速くないあのスポーツカーね」と昔の事を言われるのは絶対避けたかったのである。で、ダントフが150マイルを達成したのはモトラマショーのほんの2〜3日前だったという。ショーにおいては「この新型コルベットはデイトナビーチで時速150マイルを達成!」と大々的に宣伝され、客たちは「ホンマかいな!どえりゃー速いがや!」と大いに驚いたと言う。コルベットは名誉を回復したのである。
↑これはベティ・スケルトン(Betty -Elizabeth- Skelton)。乗っている車は1956年式コルベット。1956年のデイトナ・スピード・ウィークのペースカーである。ベティはもともとは飛行機のスタント・パイロットでエアレースなどに出場していたのだがもっと自分の活躍の場を拡げたいと考えて車も運転するようになったのだという。ベティはシボレーの広告代理店のキャンベル・エワルドに関係があったためにこのデイトナのフライングマイルに出場する事になったのだと言う。結局これを契機として、1966年にはボンネビルでアート・アルフォンのサイクロップ(Art Arfon's Cyclops)という車に乗って時速277.62マイル(約445km/h)を叩き出すところまで行ってしまったと言う凄いねーちゃんである。当時の写真を見る限りなかなかの美人だが今生きていたら驚く程の婆さんであろう。でもいっぺんこういう人の昔話を聞いてみたいものです。
↑コルベットの宿敵、サンダーバード。余裕の表情で手を振るアンちゃんはチャック・ダイ(Chuck Daigh)。ところがこの年、サンダーバードは時速134.40マイル(約215km/h)しか出せずにコソコソと帰って行きやがったぜ!恥ずかしくて公道を走れずにそのままデイトナの海岸沿いにヨタヨタとデトロイトまで帰って行きやがったぜ!(これはウソです。フォード・ファンの皆さんごめんなさい。サンダーバードが相手だと私もつい感情的になってしまうのです)
ただしチャック・ダイに落ち度はありません。その前の年の記録よりも悪かったという話を読んだ記憶があるのでどっかのバカがエンジン組み間違えたかキャブのセッティングを誤ったか、そんな事情だろうと思われます。
↑1956年2月2日、デイトナビーチにて出走を待つジョン・フィッチ。この後、エド・コールの肝煎りでコルベットのレーシング・チームが急遽結成される事になるのだが、ジョン・フィッチはプレイイング・マネージャーとしてセブリング12時間レース出場のチーム運営およびドライビングを任される事になる。ちなみに写真右で仁王立ちしているテンガロンハットのおっさんが有名なヘンリー「スモーキー」ユニック(Henry "Smokey" Yunik)である。シボレーはデイトナでこういったスピード・トライアルなんかをやるにあたって拠点となるガレージを探していたが、シボレーのマウリ・ローズ(Mauri Rose)という有名なエンジニアが「スモーキーのところならいいんじゃないか。ヤツには経験も実績もあるし、エンジンの面倒も見てくれるだろう」と指名したらしい。ユニックはそれまでハドソンのチューナーとして勇名を馳せており、シボレーのV8なんぞいじった事もなかったがこれを契機として以後、セブリング・レーサーの4台のエンジンを初めとして、シボレーのチューナーとして活躍を続ける事になったのだという。
↑フライング・マイル終了後、三台揃って記念写真。手前からベティ、ゾラ、ジョンの順。デイトナビーチの美しい砂浜、紺碧の海、青い空をバックにした三台のコルベットの白さが目に染みる一枚(と言ってもモノクロ写真なのであくまで私の想像ですが)。この三台揃い踏みの写真は他にもあるが三人の表情が非常に晴れやかなのが印象的である。
↑ちなみに当時のデイトナとはこんなコースだった。写真は1950年のもの。見ての通り砂浜のストレートと一般道路のストレートを両端のカーブでつないだだけのコースレイアウト。無理矢理に考えればオーバルと言えなくも無い。最長のレイアウトで4.1マイル(約6.5km)あったという。一般道路(Highway A1Aというらしい)の方はアスファルト鋪装、ビーチ側は当然ダート、というかサンド。一台の車でアスファルトとダートの両方をブッ飛ばせ、と言うんだから考えてみれば滅茶苦茶なコースである。上の写真はレコード・アテンプトのものではなく、オーバル(?)トラックレースのスタート直前のもの。先頭にペースカーがいて、砂浜の上のアリの行列みたいなのが命知らずのエントラントたちである。NASCARったって最初はこんなもんだった、というお話。ビル・フランスはよくNASCARを育て上げたものだと思う。ビル・フランスの苦闘の話もなかなか面白いのでいつかご紹介したいと思います。
 アーカス・ダントフにはコルベットをジェネラル・モータースの車として生き長らえさせる為には、当時の自動車業界で良く言われていた「日曜日にレースに勝って、月曜日に車を売る」という言葉通りの事態を巻き起こす事が必要だという事が分かっていた。そしてV8が搭載された事によって、コルベットがレースにおいて勝利を獲得する可能性は今や現実的なものとなっていた。

 ダントフの最初のプランはデイトナ・スピード・ウィークを席巻するというものだった。彼は前年の1955年、自らシボレーのセダンをドライブしてパイクス・ピークの新記録をたたき出した時に「新記録を出すとその広告効果は莫大なものになる」という事実を学んだ。

 当時のシボレーの広告代理店キャンベル・エワルド(Campbell-Ewald)のオースチン・チェンリー(Austin Chenley)はその頃のフォードのストックカーが持っていたパイクス・ピークの記録を1956年式シボレーのセダンで打ち破る事が出来ればこれはシボレーにとって莫大な宣伝効果を持つ事になると考えていた(訳者註:1956年式の車は実際には前年、この場合1955年の晩夏から作りはじめるのが通例。だから1955年の9月に1956年式が走っていても理論的にはおかしい事はないのです。但し、このベルエアはFRPボディを持つちょっと特別なやつで56年式の試作型とも言うべきものでしたが)。シボレーの技術宣伝部門のディレクターのW. R. マッケンジー(W.R.MacKenzie)がアーカスダントフにこの「パイクスピーク計画」の監督をしてくれないかと打診したところこのベルギーからやって来た技術者は「素晴らしいアイデアじゃないか」と言った。

 記録の信頼性、中立性を保証するにためには外部の組織によってその記録が認証される必要があるとシボレーは確信していた。ゾラはこの観点から記録達成計画にふさわしい組織を探した。そして当時まだ組織されて間もないNASCAR(National Association for Stock Car Automobile Racing)に白羽の矢が立ち、ビル・フランス(訳注:Bill France/NASCARの創始者)の個人的な監督のもと、彼らが計時を行う事となったのである。

 アーカス・ダントフはコロラド・スプリングのブロードムーア・ホテル(Broadmoor Hotel in Colorado Springs)にチェックインした。そこでダントフは彼がパイクス・ピーク(Pikes Peak)で午前3時に日の出を見るのが好きな大富豪だという噂を流したのだった。だが実際にはダントフは毎朝ヒルクライムの道を走る練習をしていたのである。これは結局フォードに対してシボレーの「やる気」を悟られないようにするための方便だった。アーカス・ダントフは写真を撮るためにプールサイドに集まって来たファッションモデルたちに鋭い視線を投げかけつつ、ファッションデザイナーのオレグ・カッシーニ(Oleg Cassini)にフランス語やロシア語で話しかけていかにもカッシーニにアドバイスしているかのように振る舞ったりしていた。

 そして9月9日、アーカス・ダントフはカモフラージュされていた56年式シボレーのセダンに乗り込みパイクスピークの山を猛然と登りつめ結局17分24秒05という新記録で走り切った。このタイムは同じ場所を走る現代のターボチャージャーを装備したラリーカーのタイムに比べてもわずか5分遅いだけに過ぎない。

 そして次にはさらに大きな山がダントフの前に立ちはだかっていた。そう、デイトナ・スピード・ウィークである。


●デイトナの乾いた砂浜
 当時、デイトナ・スピード・ウィークは春の国民的行事だった。スピード・ウィークは自動車メーカーにその実力を遺憾なく発揮させる絶好の機会を与えた。デイトナの広い砂浜の上で加速、最高速その他全てのパフォーマンス・テストが繰り広げられたのだった。スピードウィークは素晴らしいスピードとパフォーマンスの饗宴を1970年代中盤まで繰り広げることになった。そしてついでにこれは2月というデトロイトの一年でもっとも寒い時期に自動車会社の重役達が暖かいフロリダに出張するための恰好の口実ともなったのである。

 デイトナに行くにあたって、アーカス・ダントフは考えられるリスクについても当然把握していた。もしコルベットがこの試みに失敗することになったら、それはコルベットという車の存続にとって痛恨の一撃になるに違いない。何か特別な対策をしなければならないのは明らかだった。その「何か」がコルベットの伝説のひとつとなったダントフ・カムである。

 多くの人々が今でも誤解しているのだが、ダントフ・カムというのは単なるハイ・リフト・カムではない。それは全く違う。確かにダントフ・カムはストックのカムより少しばかり高いリフト量を持ってはいたが、実際にはそれはパワー・パック・カムより低いリフト量だった。ダントフが明敏にも行った事は、シリンダーヘッドの形状、バルブトレインの特徴などから必要とされるものは何かを考えてそこから逆に最適なカム形状を決定するという手法であった。

 ダントフはいかにしてシリンダーヘッドの充填率を上げるべきか、という点から始めた。まずストックのプレス成形のロッカーアームのレバー比でどれくらいの空気が入ってくるのかを計算し、次にその条件下でバルブを開閉するスピードとリフト量が高速走行において最適の設定となるであろう値を計算した。そうやって得られた値を彼はカムプロファイルに反映させたのである。

 シボレーの他のエンジニア達はその新しいカムに関して懐疑的だったので、アリゾナのGMのメサのテストコースでテストをしていたアーカス・ダントフはエンジニア達にそのカムのプロトタイプを削り出して送るように電話で説得しなければならなかった。だがそのカムがいったんテストカーに取り付けられるや、3.27のデフを装備したテストカーのコルベットはエンジン回転数6300rpmで時速163mph(261km/h)を叩き出した。

 このグリップの良い路面で時速163mph(261km/h)で走れると言う事は、デイトナのトラクションの低い砂浜の上ならおおよそ150mph(240km/h)あたりで走れるのではないかとアーカス・ダントフは見積もった。

 このアリゾナのテストコースで走らせたテスト用コルベットは実際には初期のコルベットのシャシーを1956年式に準じたスペックにモディファイしたものだった。ヘッドライトにはコーン形状のフタがつけられ、助手席側はファイバーグラス製のトノー・カバーで覆われ、オリジナルにかわって小さなウィンドスクリーンが取り付けられ、そしてジャガーDタイプレーシングカーの様な大きなテールフィンがドライバーズシートの後ろに取り付けられていた。

 時速150mph(240km/h)はこの車にとって今や完全に実力のうちである、と自信を持ったダントフは次のステップに進んだ。NASCARのオフィシャリングのもとで時速150mph(240km/h)の記録を達成すべく、そのテスト・コルベットをフロリダに持ち込んだのである。1955年の12月の事であった。

(訳者註:これは2月の“デイトナ・スピード・ウィーク”に向けてのプレ走行テストです。つまりダントフは1月と2月二回デイトナ・ビーチを走っています。勿論1回目のプレ走行テストにおいても第三者であるNASCARにタイム計測を依頼しています)

 波の高さ、風の強さ、そして砂の湿り具合など全ての要素がパーフェクトである必要があるとゾラは考えていたが(訳者註:パワーボートじゃあるまいし、波の高さなんか関係ないような気がしますが原文には "the level of the tide" と書いてあります)、自然条件がNASCARの思い通りになる筈もなく、かくしてゾラは条件がほぼ理想に近いものになる1956年の1月まで待たなければならなかった。

 それでも待ち切れなくなったゾラはついに必ずしも好条件とは言えないものの、砂浜が少しだけ乾き気味となったある日、走る事に決めた。だが砂浜が乾いていようが乾いていまいがダントフというゴッドファーザーの運転するコルベットはその日、計測器の前を二回走り抜け、その平均時速は150.58mph(241.53km/h)であった。これは充分な新記録である。

 この成功により、2月のデイトナ・スピード・ウィークに向けて更に2台のコルベットが送り込まれた。この三台のコルベットはアーカス・ダントフ(150mphを出した車である)とジョン・フィッチ(John Fitch)とエリザベス・スケルトン(Elizabeth Skelton)の三人によって運転される事となった。これがコルベットの最初の公式スピード・テストである。


これがNASCAR発行、ビル・フランスの署名入り証明書。

(証明書)
ゾラ・アーカス・ダントフ殿
1956年式シボレー・コルベット・モディファイド
達成スピード:147.300マイル
1956年2月22日

NASCAR代表
(署名)ビル・フランス

という様な事が書いてある。



16 July 2001