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CORVETTE RACERS |
| by Gregory Von Dare published by Motorbooks International | Rating: |
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1956年、コルベットがアメリカ人に「スポーツカーである」と認められるきっかけとなった明解な出来事がふたつありました。そのひとつは「デイトナ・ビーチ」におけるスピード・アテンプトであり、もうひとつが「セブリング12時間レース」へのエントリーです。ここでは「デイトナ・ビーチ」の方について前回に引続き同書から(というかこの本は一昨年くらいから度々訳していますが)抄訳してみました。
この本を読めばコルベットがいかにしてスポーツカーとしての評価を勝ち取って行ったかという軌跡を辿ることが出来ます。興味を覚えた方はどうぞ原書をamazon.comなどでお求めになって是非続きをお読みください。 |
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| ↑1955年9月9日、パイクスピークにて「いっちょうブチかましたるかい」と不敵な笑みを浮かべるゾラ・アーカス・ダントフ。ゾラの伝記類を読んでいると優秀な技術者である事は確かなのだがそれよりも「ただの冒険好きのおっさんではないのか」という印象を受ける時がある。この時多分45歳。ベルギー、ロシア、ドイツ、フランス、アメリカなどを渡り歩いたその人生は波乱と冒険に満ち満ちている。 |
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| ↑プレ1956年式モデルでパイクスピークを砂煙を上げて力走するアーカス・ダントフ。ドリキン土屋圭一も真っ青である。「あんな勢いで走って谷底に落ちたらどうしようとか思いませんでしたか?」というジャーナリストの質問にゾラは「うんにゃ、全然」と答えたと言う。結局この時出した記録はベルエアの評判および販売に絶大な効果を与えたため、これによってゾラを含めたシボレーの人々は「やっぱ派手に記録をブチかますと車は良く売れるんだな」という確信を深める事となった。売れ行き不振に悩むコルベットだったが「ここらでいっちょう派手な花火をブチかませばこの車は売れるようになる」とゾラが考えたのも自然な成りゆきと言える。ところで上の写真の車、実はFRPボディ。「これでストックと言っていいのか」と一部で疑問視する声もあったというが結局「うぉー、今度のシボレー、すげー!」という一般大衆の声にかき消された。 |
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↑これは1956年のスピードトライアルのうち、1月の方。カラーリングが違う事から識別出来る(2月のトライアルでは白ボディに青ストライプ。アメリカのインターカラーである)。間違えやすいのだが、シボレーは1956年の1月と2月の都合2回、コルベットのスピードトライアルを行っている。 1月はシボレーが行った行事で、記録の中立性を保証する為、計測そのものはシボレーが第三者であるNASCARに依頼したもの。この時に150.58mph(241.53km/h)を達成した。2月の「デイトナ・スピード・ウィーク」のテスト走行という意味合いもあった。 2月はNASCAR主催の「デイトナ・スピード・ウィーク」にシボレーが参加して速度計時をしたもの。この時は実は150mphは出せなかった。 1月のトライアルにおいてダントフが理想的なコンディションではないにもかかわらず記録に挑戦したのには、ひとつにはニューヨークでの「モトラマ」モーターショー開催が迫っていた、という事情があったらしい。 そこでは大幅にモデルチェンジされた1956年式コルベットも並べられる手はずだったが入場客に「ああ、格好だけでちーとも速くないあのスポーツカーね」と昔の事を言われるのは絶対避けたかったのである。で、ダントフが150マイルを達成したのはモトラマショーのほんの2〜3日前だったという。ショーにおいては「この新型コルベットはデイトナビーチで時速150マイルを達成!」と大々的に宣伝され、客たちは「ホンマかいな!どえりゃー速いがや!」と大いに驚いたと言う。コルベットは名誉を回復したのである。 |
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| ↑これはベティ・スケルトン(Betty -Elizabeth- Skelton)。乗っている車は1956年式コルベット。1956年のデイトナ・スピード・ウィークのペースカーである。ベティはもともとは飛行機のスタント・パイロットでエアレースなどに出場していたのだがもっと自分の活躍の場を拡げたいと考えて車も運転するようになったのだという。ベティはシボレーの広告代理店のキャンベル・エワルドに関係があったためにこのデイトナのフライングマイルに出場する事になったのだと言う。結局これを契機として、1966年にはボンネビルでアート・アルフォンのサイクロップ(Art Arfon's Cyclops)という車に乗って時速277.62マイル(約445km/h)を叩き出すところまで行ってしまったと言う凄いねーちゃんである。当時の写真を見る限りなかなかの美人だが今生きていたら驚く程の婆さんであろう。でもいっぺんこういう人の昔話を聞いてみたいものです。 |
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↑コルベットの宿敵、サンダーバード。余裕の表情で手を振るアンちゃんはチャック・ダイ(Chuck Daigh)。ところがこの年、サンダーバードは時速134.40マイル(約215km/h)しか出せずにコソコソと帰って行きやがったぜ!恥ずかしくて公道を走れずにそのままデイトナの海岸沿いにヨタヨタとデトロイトまで帰って行きやがったぜ!(これはウソです。フォード・ファンの皆さんごめんなさい。サンダーバードが相手だと私もつい感情的になってしまうのです) ただしチャック・ダイに落ち度はありません。その前の年の記録よりも悪かったという話を読んだ記憶があるのでどっかのバカがエンジン組み間違えたかキャブのセッティングを誤ったか、そんな事情だろうと思われます。 |
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| ↑1956年2月2日、デイトナビーチにて出走を待つジョン・フィッチ。この後、エド・コールの肝煎りでコルベットのレーシング・チームが急遽結成される事になるのだが、ジョン・フィッチはプレイイング・マネージャーとしてセブリング12時間レース出場のチーム運営およびドライビングを任される事になる。ちなみに写真右で仁王立ちしているテンガロンハットのおっさんが有名なヘンリー「スモーキー」ユニック(Henry "Smokey" Yunik)である。シボレーはデイトナでこういったスピード・トライアルなんかをやるにあたって拠点となるガレージを探していたが、シボレーのマウリ・ローズ(Mauri Rose)という有名なエンジニアが「スモーキーのところならいいんじゃないか。ヤツには経験も実績もあるし、エンジンの面倒も見てくれるだろう」と指名したらしい。ユニックはそれまでハドソンのチューナーとして勇名を馳せており、シボレーのV8なんぞいじった事もなかったがこれを契機として以後、セブリング・レーサーの4台のエンジンを初めとして、シボレーのチューナーとして活躍を続ける事になったのだという。 |
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| ↑フライング・マイル終了後、三台揃って記念写真。手前からベティ、ゾラ、ジョンの順。デイトナビーチの美しい砂浜、紺碧の海、青い空をバックにした三台のコルベットの白さが目に染みる一枚(と言ってもモノクロ写真なのであくまで私の想像ですが)。この三台揃い踏みの写真は他にもあるが三人の表情が非常に晴れやかなのが印象的である。 |
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| ↑ちなみに当時のデイトナとはこんなコースだった。写真は1950年のもの。見ての通り砂浜のストレートと一般道路のストレートを両端のカーブでつないだだけのコースレイアウト。無理矢理に考えればオーバルと言えなくも無い。最長のレイアウトで4.1マイル(約6.5km)あったという。一般道路(Highway A1Aというらしい)の方はアスファルト鋪装、ビーチ側は当然ダート、というかサンド。一台の車でアスファルトとダートの両方をブッ飛ばせ、と言うんだから考えてみれば滅茶苦茶なコースである。上の写真はレコード・アテンプトのものではなく、オーバル(?)トラックレースのスタート直前のもの。先頭にペースカーがいて、砂浜の上のアリの行列みたいなのが命知らずのエントラントたちである。NASCARったって最初はこんなもんだった、というお話。ビル・フランスはよくNASCARを育て上げたものだと思う。ビル・フランスの苦闘の話もなかなか面白いのでいつかご紹介したいと思います。 |
![]() | これがNASCAR発行、ビル・フランスの署名入り証明書。 (証明書) ゾラ・アーカス・ダントフ殿 1956年式シボレー・コルベット・モディファイド 達成スピード:147.300マイル 1956年2月22日 NASCAR代表 (署名)ビル・フランス という様な事が書いてある。 |
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