15) 評伝・シボレーの空冷エンジン


 これも前項に続くシボレーのクライシス話。非常に優秀で功績もあり尊敬されていたエンジニア、チャールズ・ケタリングの生涯最大のミスとなった空冷エンジン。このエンジンはやがてGM全体を混乱と危機に陥れる事となります。面白い事にこの話のざっと50年後に日本でも本田技研において空冷エンジンか水冷エンジンかという点をめぐっての一大混乱がありました(この時は結局ホンダの創始者である本田宗一郎の引退にまで事態が発展してしまったそうです)。GMとホンダ、国も違えば時代も違うのですが事態の経過に似たところがあるのは興味深い事です。
出典は、

"Standard Catalog of Chevrolet"
Edited by Ron Kowalke
Krause Publications

です。
興味を覚えた方はどうぞ原書をamazon.comなどでお求めになって是非続きをお読みください。

評伝・シボレーの空冷エンジン

"Saga Of Copper Cooled Chevy"
by Rich Taylor

 チャールズ F. ケタリング(Charles F. Kettering)、輝かしき「ケットおやじさん(boss Ket)」の名はGM初期の歴史、そしてもちろん自動車の歴史の中でまっさきに思い浮かべられる重要な名前である。彼はセルフスターターを発明し、高圧点火システムを発明し、高圧縮エンジンを発明し、フレオンガスによる冷却を発明し、2サイクルディーゼルエンジンを発明し、有鉛ガソリンを発明した。しかしながらケタリングはたったひとつだけ目立った失敗を犯している。彼の発明した物の中でも最も単純なものにも思える物……、それは空冷エンジンである。

 ケットは1918年にその空冷エンジンの開発を始めた。その頃彼はGMの研究部門であるデイトン・エンジニアリング研究所の取締役だった。1918年時点でも空冷エンジンは別に目新しいものではなかった。フランクリン(Franklin)が数多ある空冷エンジンメーカーの中でも唯一知られたメーカーではあったが。

 その頃製造されていた空冷エンジンはシリンダーブロックに苦労して冷却フィンを溶接した物か、ブロックを鋳造するときにいっしょに注意深く鋳込まれたものかのどちらかであった。どちらの方法も大変高価で時間のかかるものであった。ケタリングは他のメーカーが試している方法よりずっと効率的かつ大量生産するに充分な低いコストでエンジンを空気冷却する方法を発明したいと思っていた。

 ケタリングの出した答えは外側が平滑な鋳鉄シリンダーを使うというものだった。それから彼は銅板を用いて垂直なフィンが連続する様にヒダを造る加工をした。これらは前述の鋳鉄シリンダーの外側に溶接で取り付けられることになっており、銅は鋳鉄よりも熱伝導が優れているのでケタリングは自分のエンジンは超効率的で組み立てやすいものになると思い描いていた。最後の問題はその時点ではケタリングはまだ銅板フィンを鋳鉄シリンダーに溶接する装置を用意出来なかったという点である。

 1919年、ケタリングは新しい取締役委員会においてついに自分はその問題を解決したと報告した。高温溶着炉が1400度F(摂氏766度)で銅板のフィンを鋳鉄のシリンダーにきっちりと溶着させたのである。一年後、ビリー・デュラン(Billy C. Durant)がGMを放逐されその後をピエール・デュポン(Pierre S. duPont)が襲ったときケタリングはデュポンに「コンパクトな空冷エンジンが量産ベースに向けて今まさに世に出ようとしております」と手紙を書いた。

 デュポンはこの計画を承認した。シボレーのモデル490は1913年以来モデルチェンジなしでずっと製造されておりシボレーとしては何が何でもそのモデルを飛躍させる必要があったのである。デュポンはケタリングにプロトタイプを造るように要請した。それは現存するモデル490にぴったりフィットする4気筒の「銅板冷却」エンジンを搭載していてなおかつ現行の171立法インチ(2800cc)4気筒搭載のモデルといくつかの部品を共用していなければならないという指示だった。ケタリングはオーバーヘッドバルブ(水冷の490用エンジンから借用してきたもの)のついた135立法インチ(2211cc)の4気筒のテストから仕事を始めた。4つのシリンダーはそれぞれ独立していて銅板が巻き付けられていた。クランクケースから下は在来のエンジンを少しモディファイしただけのものだった。

 1921年の1月、ピエール・デュポンは新しい空冷エンジンは新しい車にこそふさわしいものであると決定した。彼はシボレーのジェネラルマネージャーのK.W.ツィマーシード(K.W. Zimmerschied)に全くの新しいボディとシャシーの車を1923年に間に合わせる様に命じた。そして一ヶ月後にはデュポンはオークランドも改善する必要があると決定した。彼はケタリングに1000ドル近辺での販売を予定している全く新しいオークランド(新しいシボレーの2倍の額である)に載せるための空冷の6気筒エンジンも並行して開発するよう指示した。

 1921年の五月、ケタリングは新たなる4気筒と6気筒のエンジンをテストカーに載せて走行可能な状態にした。だが不幸なことにそのどちらも良く走ったとは言い難かった。理由は単純で、銅板の垂直ファンのまわりの空気の流れがシリンダーを冷やすには充分ではなかったからである。ケタリングはシリンダーをとりまくシュラウドをデザインして車体前部に装着されたファンにまで導いた。空気は車体下部から吸入され、シリンダーまわりを通り抜け、フード(ボンネット)の横から排出された。(一部略)

 シボレーのツィマーシードは空冷4気筒エンジンに全幅の信頼をおいている訳ではなかったので、ケタリングは、空冷エンジンのアイデアにより大きな理解を示しているオークランドのジェネラルマネージャー、ジョージ・ハナム(George Hannum)にその忠誠心を傾けるようになった。1921年10月、ケタリングはミシガンのポンティアックにいるハナムに2台の空冷6気筒のテストカーを送った。

 この2台が2週間のテストに供された後、ハナムはケタリングにレポートを提出した。同じ物はピエール・デュポンにも提出された。「我々のテストをパスできる段階にこの車を持ってくるのには少なくともあと6カ月はかかるだろう。そしてこの6カ月のブランクを埋めるためにも我々は全く新しい水冷エンジンのラインナップを計画している」。そしてこの日、デュポンが空冷オークランドのプロジェクトを無期延期としたのでケタリングは激怒した。ケタリングは、空冷エンジンのコンセプト及びその4気筒シボレーバージョンに対する信頼を再度宣言したGMの役員会の全てのメンバーのサインの入ったレポートをデュポンに提出した。

 デュポンは1922年の9月までに空冷エンジンを量産できるようにとケタリングに命令した。そして彼の助けとするために前例のない指示を与えた。つまりシボレー、オークランドそしてビュイックのチーフエンジニアたちをケタリングをサポートするためにデイトンに送りだしたのである。ピエール・デュポンはケタリングの前人未踏のエンジンに釘付けとなっていたのである。

 アルフレッド・スローン(Alfred Sloan)はチャールズ・モット(Charles Mott)同様役員会のメンバーだった。1922年1月、この二人はデトロイトのホテルスタットラーでシボレーのツィマーシードと会見した。この三人は空冷エンジンプロジェクトはGMにとっては危険すぎるギャンブルだという点で秘密裏に合意した。ケタリングとデュポンにはそのまま銅板冷却エンジンの開発を続けさせるが、スローンとツィマーシールドは水冷490を密かに進化させておくしかないだろう、という事になったのである。

 ジェネラルモータースは今や混乱の極みにあった。あらゆる種類の社内抗争が頻発しており、そして誰が本当にこの会社を動かしているのか誰も知らなかった。1922年2月1日、デュポンはウィリアム・S・ナドセン(William S. Knudsen)をフォードから引き抜いて強力な戦力としてチャールズ・モットのアシスタントに据えた。ナドセンはデイトンに赴き、ケタリングと会談し、そしてシボレーに水冷の490の生産を中止してすぐさま銅板空冷エンジンの製造を始めるように指示した。

 ツィマーシードはナドセンにこの空冷エンジンの計画をやめるべきではないかと伝えた。しかしナッドセンはピエール・デュポンという後ろ盾を持っており、そしてツィマーシードは持っていなかった。ナッドセンはシボレー経営陣の副社長となり、そしてデュポンは自らをシボレーのジェネラルマネージャーとした。ツィマーシードは実権のない重役職に祭り上げられた。

 シボレーは1922年の4月に新しい空冷エンジンの製造のために工場を立ち上げ始めた。予定では9月までに1日10台、12月までには1日50台の製造を目論んでいた。しかしケタリングはまだ工場の立ち上げを承認しなかった。彼は銅板空冷エンジンはまだ大量生産への準備が出来ていないと異議を唱え、もう少し不具合箇所を直すのに時間が欲しいと言った。

 6月までにはデュポンとナドセンにとってさえ空冷エンジンは決して完成しないという事が明らかになってきた。スローンとモットは空冷エンジンのためにデザインされた一群のボディを使用してより小綺麗に仕上げたバージョンのモデル490シャシーにそれを組付けても良いという許可を得た。これによって1923年型のモデルは新しい「サペリアー490」(Superior 490)と号される事となったのである。もし空冷エンジンが準備できた時にはそれは「サペリアー490」にシャシーの改造なしで取り付ける事ができるはずだった。

 サペリアー490は在来の490フレームの103インチ・ホイールベースのバージョンを使用していた。フロントとリアには弓形に弧を描くリーフスプリングを使用しておりリジッドアクスル、木製スポークに脱着可能なリムを装備したホイール、そしてリアホイールのみにバンド式ブレーキ(訳者註:原文は"external contracting brakes"となっていますがこれは多分外側から車軸またはハブを締め上げる構造のブレーキの事と思います。現代の様なドラムブレーキが多分"internal contracting brake"になるのではないかと思います)を装備していた。エンジンは充分錬成された正真正銘の水冷490で、もうこれで10年めになるもの、トランスミッションは同じく旧来の3速、デフはスパイラル・ベベル・ギアーのものだった。

 サペリアー490シリーズの価格はT型フォードよりほんの少し高価な500ドル近辺から始まり、上はオークランドより少し安価な900ドル以下に抑えられていた。新しいラインナップには2人乗りセダネット(訳者註:小さなセダンと解釈しときましょう)、5人乗りクローズドボディ・セダン、そして2人乗りクローズドボディ・クーペが含まれていた。

 ケタリングが常にもう少し開発時間が欲しいと言い続けたため、1922年の夏の間中ずっとピエール・デュポンは空冷エンジンの発表を延期し続けなければならなかった。しまいには1922年11月、デュポンはケタリングと役員会に「シボレーは銅板冷却エンジンの開発を慎重に継続する予定である。これによって我が社に対するリスクをいつでも最小のものとしておくためである」という文言の手紙を送った。

 シボレーはどう見ても漂流しているも同然だった。しかも同じ手紙の中で何とデュポンはケタリングに銅板冷却の6気筒バージョンの開発に戻ってオールズモビルが1923年の8月までにそれを製造開始できるようにしてくれと要請していた。実際デュポンは空冷エンジン騒動からは最も無関係であった筈のオールズモビルに対して1922年11月16日にこの手紙を受取ってから後はいかなる水冷エンジンの開発も行わないようにという要請までしていたのである。これら事からこのころ、デュポンとナドセンの派閥とそれに反目するモットとスローンの派閥との間でジェネラルモータースの覇権をめぐって恐るべき社内抗争があったことは明らかである。GM傘下の各ディビジョンはその抗争の道具として弄ばれたのである。

 ナドセンは1922年12月初旬に銅板冷却エンジン搭載の車を実際に製造する様に命令した。価格は同級の水冷エンジンのモデルより200ドル高く設定された。水冷モデルと空冷モデルはスターターの位置が変更されている事、ジェネレーター(発電機)がベルトドライブとなった事、クラッチが単板の代わりに多板となった事、デスビにケタリング発明の自動進角装置がついていた事、そしてサイドブレーキがドライブシャフトに対して作用する様になっていた事などを除けば同一のものであった。

 12月から5月の間にナドセンは僅か759台しか空冷エンジン車を製造する事が出来無かった。そして1923年5月10日、GMの覇権をめぐる重役たちの争いはアルフレッド・スローンの勝利によって終結した。ピエール・デュポンは辞任した。抗争終了後のスローンの最初のアクションはまず恐らくオールズモビルの為に準備されているであろう6気筒の銅板冷却エンジンの現状について報告をさせる事だった。デュポンはケタリングのエンジンに信頼を置いていたのでオールズモビルに水冷エンジン付きのオールズモビルの在庫を1台あたり50ドル値引きして全部売り払ってしまえと命令していた。このあと3ヶ月以内に登場するであろう素晴らしき新空冷エンジン車のために流通経路をあけておく為だった。

 銅板冷却6気筒エンジンに関する技術者のレポートは次の様な簡潔な二つの段落からなっていた。

「銅板冷却6気筒エンジンは、冷間時からウォーミングアップをしている途中でのパワーは満足のいくものであるが、外気温16°Cから22°Cの条件で普通のスピードで走行をした後にひどいノッキング(早期着火)をおこす。これはエンジンの温間時に深刻な圧縮漏れ、パワーのロスがあることを示している。」

「これらの深刻な問題に加え、他にいくつかのマイナートラブル(必要があればその詳細を報告する事は可能である)を抱えており、我々はこのエンジンは早い時期に大量生産にこぎつけられる様な状態にはないという結論に達した。このエンジンは将来の開発のためにおいておいて、すぐさま大量生産をする必要がある場合はこのエンジンの事は考慮外とするべきであると我々は勧告する」

 この破滅的な内容のレポートに従いスローンはオールズモビルに水冷エンジンの開発を続けるように指示した。スローンはナドセンに4気筒の空冷エンジン車の製造をストップするだけでなく既に売られてしまった759台の全てを買い戻して廃棄処分するように命令した。ナドセンはライン上で製造途上にあった239台、シボレーのマネージャーたちに乗られていた150台、ディーラーのショールームから買い戻された300台をスクラップにした。

 エンドユーザーの手に実際にわたったのは100台だけだった。シボレーのサービスマンたちは2台のクーペを除いて全てを買い戻す事に成功した。買い戻せなかった2台のうちの1台はデトロイトでヘンリー・フォードに買われていた。非常に奇妙な事だが、ただ単にそれがどんな騒ぎになるかを見るためだったらしい。この車はこんにち、グリーンフィールド・ヴィレッジのヘンリー・フォード博物館に保存されている。残りの一台のクーペはボストンのサミュエル・エリオット氏によって購入された。この人物は典型的な気難しいニューイングランダーでただ単純にそれを手放すのを拒否したのである。この車は現在「ハーラー・コレクション」の中に保存されている(訳者註:ハーラー・コレクションというのはブリッグス・カニンガム・コレクションなどと同類の有名な自動車コレクション博物館です)。

 スローンが空冷エンジン車を処分したと知った時、チャールズ・F・ケタリングは目に見えて狼狽し、辞任もやむなしかとおびえた。だがスローンのケタリングに対する扱いは見事なものだった。スローンはケタリング自身が「カッパー・クールド(銅板冷却)」と呼ばれる新しい車のラインナップを発表してデイトンでそれを製作してGMのディーラー網を通して販売してはどうかと提案した。ケタリングはその夏中を費やしてそして1923年秋、彼はミシガン大学の工学部研究所に沢山のテストエンジンを提供した。

 ミシガン大学の工学部の学生(訳者註:原文"student engineers" 多分日本で言う院生、つまり大学院の修士課程または博士課程の研究員くらいの意味だと思います)はケタリングがずっと見落としていたものを発見した。水冷490エンジンの吸気マニフォールドの温度が4気筒とも全部55°Cであったのに対して銅板冷却エンジンのインマニの場合、温度は前から後ろにかけてそれぞれ60°C、53°C、56°C、75°Cというものだった。そして先頭のシリンダーヘッドの温度が205°Cであるのに対して最後尾のシリンダーヘッドは246°Cを示していたのである。

 理由は明らかだった。銅板冷却エンジンがまともに動かなかった理由はケタリングが各シリンダーに同じ量の冷却空気を送出する適切な方法を見い出し得なかったからであった。熱的な不均衡が異常燃焼と異常高温を起こし、続いてピストンの抱きつきを起こしていたのである。この熱力学的な証拠、そしてGMがこのエンジンになんら興味を持っていないという事実に直面するに至ってようやくケタリングは銅板冷却を放棄した。

 この物語は、野望に目の眩んだほんの数人の経営者たちがその立場を利用すれば僅か数カ月で巨大な企業を一大混乱状態におとしいれる事すら可能なのだという事を我々に教えてくれる。もしアルフレッド・スローンがいなければピエール・デュポンとチャールズ・ケタリングはただ単に走る事の出来ない車を売る事によってGMを完璧に破産させていたかも知れないのである。

 非常に奇妙な事ではあるが、ケタリングがガソリンそのものの性状について研究を始めたのは銅板冷却エンジンを破壊する異常燃焼をとめるための方法を探ってあれこれ試行錯誤している時の事だった。彼はガソリンに4エチル鉛を加えるとオクタン価が上がってエンジンの発熱は下がり、異常燃焼が少なくなるという事を発見した。冷却条件の良いエンジンの場合、これによってより多くの出力の得られるより高い圧縮比が可能となったのである。よって二つの観点において銅板冷却エンジンのシボレーは実は成功作だったと言える。ひとつはそれがアルフレッド・スローンがGMの総帥になるのを助けたという点、そしてもうひとつはそれが有鉛ガソリンの発見を導いたという点である。これこそが他の多くの車についてその成功を云々するよりも重要なポイントなのである。