
11) シボレーを造った人々
L.J.Chevrolet and W.C.Durant
いくつかの本を読んでみると1900年代初頭のアメリカの自動車業界はまさに当時のハイテク業界、様々な野心に燃えた人々が身命を賭してこの業界に参入してきた様がうかがえて興味がつきません。その姿はちょうど100年後の現在、IT業界に多くの才能豊かで野心に燃えた人々が参入して様々な物語を造りつつある状況に酷似している様に私には感ぜられました。シボレーという会社を造った二人の男の成功と失意の物語りをほんのさわりだけではありますが御紹介したいと思います。出典は、
"75 years of CHEVROLET"
by George H. Dammann
MBI Publishing company
です。
興味を覚えた方はどうぞ原書をamazon.comなどでお求めになって是非続きをお読みください。
シボレー。その名前は世界中のほとんどの言語において新たなる説明を要しないで
あろう。何十年にもわたってシボレーは信頼性に富んだ、安価な交通手段としての位置を占めてきた。1950年代中頃からはいくつかのとてもスポーティで速い車として、
優れたトラックとして、革新的なアイデアを持ち、セールス上はトップシェアを誇り
、そして信頼性に富んだ比較的安価な車としての位置を占めてきた。「シボレー」は
誰でも知っている言葉となったのである。
皮肉なことに、「シボレー」という名前はシボレーが車の名前になる前からだれで
も知っている言葉だった。自動車としてのシボレーの創立はそもそもは二人の男の仕事によるものであった。
シボレー車がその名を冠したルイ・ジョセフ・シボレー(Louis Joseh Chevrolet)
とジェネラル・モータースへの復権のクサビとしてシボレー車を大量に生み出した男
、ウィリアム・クラポ・デュラン(William Crapo Durant)である。
シボレーという男は最初のシボレー車の製造を助けたエンジニアでありデザイナーでもあった。デュランはシボレーの車を市場に送り出すのに必要な資金を調達する事
の出来るマーケティングの天才であった。この二人が揃ってその後25年ほどの後にアメリカで最も売れた車となるモノを開発したのである。しかしながら皮肉なことに会社としてのシボレーがそうなった頃には二人の創立者は既にシボレーを去って久しく
、本来この自動車をこの世に送り出した者が当然受け取るべき巨額の金銭的報酬を一切受け取ることがなかったのである。実際のところ二人は困窮の中ひっそりとその人生を終えたのだった。そして彼らの死は殆ど世の人々の注意を惹きつけることもなかったのである。
ルイ・シボレーとウィリアム・デュランの名前は1900年代初頭においては非常に良く知られたものであった。シボレーは彼の母国、フランスのバーガンディ地方におい
て、革命的なワインポンプを発明したり、彼自身の設計による自転車を製造してレースに参加するなどしてその機械工学的才能を既に発揮していたが1900年頃にアメリカ
に移住してきていたのである。そしてその後、弟のアルテュール(Arthur)とガスト
ン(Gaston)が合流することになる。この三人トリオはやがて草創期の自動車産業に魅了されるに至り、三人とも自動車業界の人となった。ガストンとアルテュールは自動車の発達に貢献した何千もの人々の列に加わったのだが、富と名声の女神は彼らに微笑むのを拒んだ。しかしながら気まぐれな運命の女神の関心を惹きつけたルイは自動車業界においていっときの名声と富を得た後、やがて失意に沈み、そして最後には全てを失う様に運命づけられたのだった。
ルイが初めて人々の関心と賞賛を得たのは1905年の事だった。彼は有名なバンダービルト(Vanderbilt)・カップ・レース(訳者註:有名な大富豪、コーネリアス・バンダービルト主宰のレースがあったのでしょう)を含む一連のレース・シリーズでニューヨーク・フィアットをスポンサーとするフィアットのドライバーだった。彼のコースレコードは常に輝かしいものであった。事実、1905年にルイはバーニー・オールドフィールド(Barney Oldfield)を3度打ち負かし、そして彼はアメリカのベスト・ドライバーと見なされるようになった。ガストンとアルテュールも平均以上のドライバーだったので1905年から1908年頃には自動車レース界においてシボレーという名前は非常に有名なものとなっていたのであった。
ルイ・シボレーという名前がウィリアム・クラポ・デュランの関心を惹きつけたのはちょうどデュランがかなりの財産を手に入れた頃の事だった。ミシガン州フリントからやってきた一代で財産を築き上げた男、デュランはその優れた運搬車両の製造で彼自身とフリントを有名なものにしていた。しかしながら1904年、スムースに動く荷車を製造するというビジネスに倦怠を覚えたデュランはエキサイティングな都市、ニューヨークにやって来たのだった。
まだ成長途上でありながら事業がどうにも立ち行かないビュイック・モーター・カー・カンパニーの経営陣がデュランに目を付けたのはここニューヨークでの事だった。彼らはデュランのもとに何度も足を運び、デュランのフリント市民としてのプライドを刺激しながらデュランがビュイックに投資するための便宜を計ってビュイックという組織を機能的で利益を生むような体質に変革しようとした。1904年、デュランはまさにその通りのことをした。つまり彼自身の財産をビュイックに投資し、ビュイックの絶対的な代表権を持ったのである。デュランの統率力こそまさにビュイックが必要としていたものであることが証明されたし、事業はさらに繁栄したのである。デュランは後にビュイックを「ジェネラル・モータース」(General Motors)を形成するための基盤とした。その時に彼が統合した各メーカーはキャディラック、オールズモビル、オークランド、カーター、エルモア、アーウィング、ウェルチ(Cadillac, Oldsmobile, Oakland, Carter, Elmore, Ewing, Welch)などであった。
1907年頃、ビュイックは後年レーシングサーキットで最も良く知られたチームのひとつとなるレーシングチームを結成した。ビュイックチームはウィリアム・ピッケンス(William Pickens)によってマネージメントされ、トップドライバーとしてはボブ・バーマン(Bob Burman)とルイス・ストラング(Lewis Strang)を擁していた。ルイ・シボレーはほどなくピッケンスの目に留まり、ピッケンスはビュイックチームの為にルイとアルテュールのシボレー兄弟を二人ともレースドライバーとして雇った。ルイはビュイックのトップ・レースドライバーの一人となり、アルテュールの方は結局デュランのお抱え運転手となったのだった。
1908年、デュランはジェネラルモータースを立ち上げるのに中心的役割を果たしたが1910年には過大な事業拡張による資金的な問題が生じた為、銀行がジェネラルモータース内に人事介入することとなり、結果としてデュランはジェネラルモータースを放逐されてしまったのだった。この事態の成りゆきに怒り狂ったデュランはすぐさま投資すべき新たなる自動車ベンチャーを探し求め始めた。
こうしてデュランはリパブリック、リトル、メイソン(Republic, Litte, Mason)を見つけた。しかしデュランはこれらのメーカーを統合するに当たってはシボレーの名を冠する事になっている新しい車をデザインするためにルイ・シボレーを雇い入れた。デュラン側のこの行為は厳密に言えば必ずしもシボレーに対する好意から出たものではなかった。レースにおけるおびただしいほどの数々の成功を通してシボレーが自動車サーキットにおいて最も知られた名前であることをデュランは認識していた。そしてさらに重要な事はシボレーという名前は耳に心地よく響き、何となくヨーロッパの香りを彷彿させるものだったからである。
1911年中頃までに最初のシボレー車が工場から形となって出てきた。そしてしばしばタイプCの原型と考えられている他の3台のテストカーもそれに続いた。ただ、最新の研究によればこれらの車はむしろその後の「リトル・フォー(Little Four)」や「リトル・シックス(Little Six)」そして「ベイビー・グランド(Baby Grand)」などの先行実験という意味あいが強いようである。現在ではタイプCの実験車はただ一台造られただけだという事が判明している。
しかしながら、デュランとシボレーは「シボレー」という名のもとにどのようなタイプの車が造られるべきかという観点においてはまるで違った意見を持っていた。ルイは自分の名前は卓越した性能を持った高価でハイクォリティな車にのみ冠せられるべきだと思っていた。一方デュランは当時新しく出てきてその人気と販売台数で全ての記録を打ち破っていたT型フォードに充分対抗出来るような車を造ろうと思っていた。動力性能は妻と子供達を街に連れ出して、そして戻ってくる事が出来る程度で充分だと考えていたのである。
この事およびその他いくつかの考え方の違いがこの二人の強情な天才たちの間に修復不能な溝をつくる事となった。そして1913年9月17日、ルイ・シボレーは自分の名を冠した会社を去った。だが彼は自分はこの会社をこれで去ることになるのだが、自分の名前が既にその会社の繁栄の源となっている以上、シボレーという名は残るに違いないと落胆しつつも覚ったのである(皮肉な話だがこの状況はデュランの投資でビュイック・モーター・カンパニーが息を吹き返した後、程なくして創立者のディヴィッド・ダンバー・ビュイック(David Dunbar Buick)がその会社を去ったいきさつと殆ど同じである。ディヴィッド・ダンバー・ビュイックも不遇のうちにひっそりとこの世を去った。しかし彼の名前はシボレー同様、何百万台もの素晴らしい車として走り続けているのである)。
シボレーは去った。そして不況の時にシボレーの工場で自動車組立工として働いたほんの少しの年月を除いては彼は二度と会社としてのシボレーとかかわり合いを持つことは無かった。ルイ・シボレーは次いでフロンテニャック・モーター・コーポレーション(Frontenac Motor Corp.)を創立した。その名前は彼がかつてフランスで製造していた自転車からとったものである。この会社は後にスタッツ自動車(Stutz Motorcar Co.)に吸収される事となる。ルイと弟のアルテュールはT型フォードレーサーに使用するあの有名な「フロンテニャック・シリンダーヘッド」や他のレース用部品も多年にわたって造り続け、その後は航空機部品の製造分野に乗り出した。
フロンテニャックのカービジネスは1922年に不況のために立ち行かなくなった。そしてルイとアルテュールはレースや航空機部品における二人のパートナーシップを1927年に解消した。この後のシボレーの人生は1941年にデトロイトに死すまでの間、しばしば健康を害し、終始個人的な悲劇につきまとわれるというさながら急坂を滑り落ちるが如くのものであった。
一方、デュランはシボレー社の生み出した利益を最初のジェネラル・モータースのベンチャーの時に失った株を買い戻すのに使った。そして信じられない程の成功を収めたシボレーは利益を生み出し続けていたのである。その利益額は1915年の9月16日には実に5800万ドル以上にも達し、そしてデュランは再びジェネラルモータースを支配下におくことを得たのである。この表現は全く真実とは言えないかも知れないが、しかしデュランの持つ株式の重みが結局は1915年の11月16日に経営陣を全く刷新するという結果を生んだのである。
会社の株価が400ドルから12ドルに暴落するという1920年の景気悪化に遭うまではデュランはジェネラルモータースに対する支配的な地位を維持していた。が、再び経営陣は刷新され、そしてデュランはまたしてもジェネラルモータースを放逐され、今度は二度とそこに戻ることはなかった。
それでも尚意気軒昂たる60歳のデュランはその後も他の自動車ベンチャーに打ち込みもうひとつの帝国を作り上げたが結局、1932年にアメリカ史上最終最大の恐慌が彼を永久に自動車ビジネスから遠ざけたのだった。この時デュランは72歳、やり直すには明らかに疲れ切っていた。彼は平穏に暮らすことに満足を覚え、結局1947年に死去した。
その頃、シボレー・カンパニーはデュランの夢を踏襲し、低価格の大量生産車分野におけるリーダーと見なされていたフォード・モーター・カンパニーの頭を抑えるまでになっていた。フォードのモデルTに対抗するのに用いられた車はイニシャル価格が490ドルというリストプライスの1916年式シボレー・モデル490だった。小さい頑丈な4気筒、オーバーヘッドバルブを持ったその車は、確実に良くなった品質、値段に見合った価値をクォリティを重視する人々に提示することによって低価格車におけるフォードの絶対優位を少しずつ削り取り始めていた。
より良い製品で競争に立ち向かってこれに打ち勝つ事がシボレーにおける合い言葉となったのである。1924年には低価格帯の車の購買層には「黒色の車しか選択肢がない」という前提条件が崩れた。シボレーはニッケルメッキや様々のボディカラーを提示したのである。1927年、シボレーは1,001,880台を生産し、歴史上初めてフォードを低価格帯車の販売で打ち負かしてその支配力を強め始めた。1924年から1928年の期間においてシボレーが人々に圧倒的に支持されたその特徴は、ソフトな乗り心地、軽快なステアリング、クローズドボディモデルの自動ワイパー、ボディの魅惑的な艶仕上げ、そして細部に対する気配り、などであった。勿論このためにフォードはその年の半ばには生産ラインを長きにわたって閉鎖し、T型フォードからA型フォードに移行するために必要とされる工場の大改装を行う破目となったのである。
初期のダートトラックレーサーやホットロッド乗りたちもシボレーを無視すること
などは出来なかった。ジャンクヤードにはオールズモビルの3ポートヘッド、ナッシュのロッカーアーム、ジェネレーター、ジュエットのハイボリュームオイルポンプ、
そしてデュラン・コンロッドなどがいくらでも転がっていて、しかもそれらはモディ
ファイなしで装着できたのでシボレーでレースをする人々にとっては高価なパーツを別途購入する必要がなかったからである。フロンティ(Frontys)やレイジョー(Rajos)その他の高価なパーツを装着されたフォードと同じ土俵で戦ったこれらのバックヤードスペシャル・レーサー達のポテンシャルは中西部のダートトラックレースにおける勝率や、シボレーの4気筒レーサーが1940年に時速140マイル以上の記録をたたき出したカリフォルニア砂漠のドライレイクでの勝利によって証明されることとなった。
1929年初頭、シボレーは「4気筒の価格で6気筒を」と高らかに宣言した。言うまでもなくその6気筒のシボレーは4気筒のフォード以上の価格ではなかったのである。「ストーブボルト・スペシャル」「キャストアイアン・ワンダーズ」「シェイカーズ」(Stovebolt Specials, Cast Iron Wonders, Shakers)その他色々なニックネームで知られる6気筒エンジンは、ボウタイ・エンブレム(bow-tie emblem)をつけられて結局25年の長きにわたって何百万台もの乗用車やトラックに搭載されてその信頼性を証明したのである。
1955年、長きにわたるシボレーとフォードの競合関係はオーバーヘッドバルブを持
った265キュービックインチ(約4340cc)の高回転型V8エンジンの登場によってまた新しく燃え上がったのだった。殆ど一夜にしてシボレーは公認レースと普通のシグナルグランプリの両方のドラッグレース界を支配し始めた。
その時以来、イノベーション(革新)こそがシボレーがシボレーとしてやって行く
ためのルールとなったのである。
(以下略)