21) ホットロダーたちの青春 -年代別に-
前ページに引続き、元祖ホットロダーたちのおバカな話を訳してみました。


出典書:
The American Hot Rod
by Dean Batchelor
published by MBI Publishing Company
Rating:  
 あんまり面白いのでまたまた前ページと同じ本からの和訳です。ここでは1930年代、1940年代、1950年代の代表的車バカのエピソードを各1話ずつ訳してみました。いかに年代が古くとも彼らの車に賭ける情熱は現在の車バカと何ら変わらないという事がわかっていただけると思います。
 私はこの本を全てのアメ車好きの方々に強力に推薦いたします。ホットロッドに関する事実のみならず色々な文化的背景、例えば1950年代のドライブインの風景であるとか、ドライブインに集う若者たちの生態などについての情報も詰まっており、それはそれで誠に興味深いものです。但し、1960年代以降の話は皆無に近いのでそこのところだけはお間違いのないように御注意下さい。興味を覚えた方はどうぞ原書をamazon.comなどでお求めになって是非続きをお読みください。損はいたしません。


●1933年の青春 -ボブ・エステスの場合-

 今年20歳になったボブ・エステス(Bob Estes)は自分の働いていた「ユニオン・ガソリン」のスタンドを午後10時の閉店時間に合わせて閉めるところだった。場所は西ロサンゼルスのピコ(Pico/パイコ?)通りとセパルヴェダ(Sepulveda)通りの交差点の北東角。ちょうどその時、ワックスの効いた黒いボディのパッカードのコンバーチブルがスタンドに入ってきた。運転していたのはクラーク・ゲーブル(クラークはこの1933年の時点で既にトップの映画スターのひとりだったがこの後、すぐに彼の全盛期を迎える事になる)であった。

 ボブがパッカードに給油している間、ゲーブルは事務所の横に停めてある綺麗な黒の1925年式T型フォードに目をとめると言った。

「やあ、どうやらオレたちは黒い車が好きな者同士のようだな」

エステスはそのT型フォードにプライドを持っており、車キチガイの常としてその車はいつもピカピカで、いつでも走れる状態にしてあった。エステスは答えて言った。

「そうですね。でも残念ですがあなたのパッカードはそのT型フォード程には速く走れないでしょうね」

「何だって?・・ちょっとこの車を見せてもらってもいいかな?」

「どうぞどうぞ」

「エンジンをかけてもらってもいいかな?」

「勿論いいですよ。ちょうど店も閉める時間だし。いつも閉店前には先にエンジンをかけておいて暖機しておくんですよ、走り出す前にね」

暫く話し合ううち、ゲーブルは切り出した。

「君は本当にこの車がオレのパッカードより速いと思うのかい?」

「そうですね、じゃあそいつを引っぱり出してここからサンタモニカ通り(Santa Monica Boulevard)まで走ってみましょうか。そうすりゃ判ると思いますよ。ついでだから5ドルくらい賭けましょうか。いま店を閉めるから待ってて下さい」

↑このおっさんが "King of Hollywood" と称された当時のハリウッドいちの伊達男、クラーク・ゲーブル(1901-1960)である。「風とともに去りぬ」のバトラー役が一番有名か。ゲーブルはデューセンバーグが好きで良く乗り回していた、と何かの本で読んだ記憶があるが1933年時点ではパッカードに乗っていたらしい。ボブ・エステスのT型フォードに負けて頭に来てデューセンバーグに乗り換えたんじゃなかろうか。
↑このねーちゃんが女優・キャロル・ロンバードだと言う。当時ゲーブルとの恋仲は有名だったらしい。ある資料には「二人のなれそめは1936年」と書いてあった。ところが今回訳した本書(The American Hot Rod)からは実は1933年には既に二人は恋仲だったという新事実が読み取れる。まあどっちだってええですわ。
↑飛行帽にゴーグルの右側の青年が1930年代初頭のボブ・エステス。暴走族の開祖と言っていい。後ろはクラーク・ゲーブルのパッカードをブチ抜いたバリバリのチューンドT型フォード。今で言えばベンツの6リッターのロードスターをホンダ・シビックのタイプRがブチ抜いた、みたいな話でしょうか。ちなみに左で嬉しげに微笑むおっさんはボブの父ちゃん。親子そろってこういう事が好きだったのか。
 その後の事はボブによれば「オレはゲーブルをブッちぎった。サンタモニカに着いた後、帰り道にも5ドルの賭けを持ちかけた。で、帰りも勝ったという訳さ」という事だそうである。

 その2〜3日後、女優のキャロル・ロンバード(Carole Lombard)がボブのガソリンスタンドにやってきてボブのT型フォードを売ってほしいと申し出た。クラーク・ゲーブルの誕生日のプレゼントにするというのである。彼女いわく「クラークったらこの2日間というものその車の話しかしないのよ」との事であった。その時点でボブはそのT型フォードをかれこれ4年程所有していた訳だがその車は完璧に仕上がっていたし彼の好みに合わせてチューニングされていたのでボブとしては売る気にはならなかった。それなら、とミス・ロンバードはさらに高い買い取り価格を提示した。それでも拒絶されたので彼女はボブの車をコピーしてもいいかと聞いた。「勿論いいですよ。いいですけどこのガソリンスタンドから持って行かないでくださいね」とボブは答えた。数日後、二人の男がスタンドにやってきてボブの車の各部の寸法を測って写真を撮影していった。

 やがてコピーのT型フォードは完成したが、エステスはそれが自分のT型フォードに似ても似つかない失敗作だったと記憶している。エステスのT型フォードはフロンテニャックのSRロッカーアーム式OHVシリンダーヘッド、ウィンフィールドのダウンドラフト式キャブレーター、そして1922年式ウィルズ・サンタ・クレア(Wills Sainte Clair)のV8エンジンのクランクをT型フォードに合うように改造したものがついていた。これによってクランクシャフトの強度が飛躍的に増大しただけでなくメインジャーナル、コンロッドエンドに油圧潤滑を行う事が出来たのである。ロッキーマウンテン(Rocky Mountain)製の3速ミッションがオリジナルの2速ミッションの後ろに取り付けられ、ラクステル(Ruckstell)の2速リア・アクスルが取り付けられていた(オリジナルのT型フォードは2速しかなかったらしくその不便をカバーするものとして何と、デフに変速装置をつけたリアアクスルが当時人気だったようです)。

(中略)

 だが一方でこの新進の若きビジネスマンはその運転の仕方によって法律をおかしてもいた。ボブ・エステスの運転はいつでも可能な限り速く走るというスタイルのものでストリート・レーシングにも参加していた。彼のパワーアップしたT型フォードは日々の交通手段であるのみならず、彼の「どこでだってレースをする」という人生哲学を実践する恰好の手段でもあった。

 そんな具合だったからやがて彼が行くところはどこでも、警察がつきまとってくるという事になってしまったのである。彼には事態は既にのっぴきならぬところまで来ているのが判った。エステスは自分はガソリンスタンドをいつも午後10時に閉めてピコ・ブールバードに行くのでもし捕まえられるものなら捕まえてみろ、警察上等、大歓迎だと公言する事によって深刻な対立を招いていた。

 ある夜、エステスはパトカーが彼のガソリンスタンドのそばを何度も流しているのを見て「おっ、奴ら今日こそはオレを捕まえる気だな」とピンと来た。彼はガールフレンドのエレーヌ・ブラウンリー(Elaine Brownley)に電話をして「もしサイレンの音が聞こえたらガレージの扉を開けてくれ。オレが車を入れるから」と伝えた。

 この日の「ミーティング」の数日前、ボブ・エステスはT型フォードの右スポットライトに黄色のレンズを入れて青の電球を取り付けていた。この組み合わせは警察が使用する赤ライトと同じような赤い光を発した。

 その夜、ボブ・エステスがガソリン・スタンドを出て走り出してからルームミラーに警察の赤いライトが映るまでには2〜3ブロックとかからなかった。ボブはアクセルをガンと踏み込んだ。レースの始まりである。エステスはこの辺りの道と言う道を多分警察と同等かそれ以上に知り尽くしていた。ピコとハウザーの交差点の舗装面にはいつも水が浮いていた。

 ボブの後ろではサイレンが鳴っていて、ついでにボブの車には赤いスポットライトがついていたものだから他の車はボブの車が誰かを追いかけている車の先頭だと思ってほとんどが道を譲ってくれた。実際にはボブが追い掛けられていたのだが。ボブはハウザーとピコの交差点カーブを理想的ラインで駆け抜けた。そこは彼がいつもガールフレンドの家に行く道だったので既に何度も練習していた道だったのである。だが追いかけて来たパトカーの一台は舗装面の濡れたところでスリップしてしまった。そして車は歩道を乗り越えて店先に突っ込んで運転していた警官は病院送りとなってしまった。また別のパトカーは交差点を曲れずに真直ぐ走って行ってしまった。かくしてボブはガールフレンドのエレーヌが扉を開けておいてくれたガレージに走り込んですぐに扉を閉めてまんまと逃げおおせたのである。

 しかしながらこのエピソードはこれで終わりではない。ボブは用心のため自分のT型フォードを一週間ほどエレーヌのガレージにおいておいてから家に持ち帰ったのだが、結局一ヶ月もたたないうちにボブは警官に追い詰められ、棍棒で頭を殴られて意識を失い、気がついたら監獄の中にいた。裁判官は「この危険物が道路上を走らないように」とボブの車を差し押さえてその代金をボブに支払う事を法廷で宣言した(ボブはその金額たるや車の本当の価値にくらべたら全くの二束三文だったと記憶している)。

 法廷で裁判官の心証を最も悪くした点はボブがガソリンスタンドの売上金がたんまり入った鞄を持っていた事である。ボブは胸に自分の名前の入ったガソリンスタンドの制服を着ていたのにもかかわらず、警察は「その金は盗んだものだ」と主張した。不景気のロサンゼルスにおいてボブは現金をガソリンスタンドに一晩おいておくという事はしないで持ち帰っていたのだが、今回はその事が逆に災いした。

 この本のためにボブが話してくれた経験は南カリフォルニアで典型的なものとは言えないが彼の車は南カリフォルニアの典型的なものだった。車は好きだがパッカードやデューセンバーグやリンカーン、キャディラックなどは買えないという人々は別の物で間に合わせるしかなかった時代なのである。そんな人々にとってT型フォード以上に適した車があっただろうか?

 T型フォードはタマも多くて安かった。そして売っているチューニングパーツの殆どはフォード・エンジン用に造られていた。1920年代を通じて、そして1930年代に至るまでT型フォードエンジンはサーキット・レーサー(註:原文 "track racers")やストリート・レーサー達に好まれたのである。



●1946年の青春 -レイ・シャルボノーの場合-

「8は見せるために、4は走るために」

 バンパーにステッカーを貼る習慣が第二次世界大戦直後の頃に一般的なものだったらきっと上の文句のようなステッカーがあちこちで見られたに違いない。4気筒に乗る男達はV8エンジンに群がる人々に対してそんなに関心を払っていなかった。

↑これは本書に載っていた写真でA型フォードの直列4気筒エンジンにライレーのOHVヘッドをつけてウィンフィールドのキャブをつけた別物エンジン。クロームパーツの使い方に後年のキラキラ・エンジン・ホットロッドにつながるトレンドの源流を発見する思いです。この頃のモディファイド・エンジンというのは通常の「改造」という概念に当てはまらないものが多く、T型フォードのエンジンでもクランクは替えて油圧潤滑にする、ヘッドも替えてOHVやDOHCにする、バルブは4バルブにする、シリンダーブロックを替えて吸排気の方向を反対側にする、など「オリジナルはクランクケースだけじゃねーか!こういうのは改造って言わないんだぞ!」と文句のひとつも言いたくなる様なメチャクチャなものが少なくありません。本編のレイ・シャルボノーのA型エンジンも恐らくこんな風にいじってあったのでしょう。
 1946年、私の仲間のレイ・シャルボノー(Ray Charbonneau)とチャーリー・ファリス(Charlie Faris)がパサデナのドライブ・イン「ラリー・アンド・カール」(Larry and Carl's)にいたある夜の事である。彼らはレイの1929年式A型フォードのロードスターに座っていた。その車の外観は40年式フォードのホイールとニュー・タイヤがついている事を除けばクズ同然のもので、まるで自動車の解体場から逃げ出して来た車みたいだった。多分5〜6年前にペイントされたのであろうダークブルーの塗装はエンジンフードの上あたりで焼けて褪色していた。ミント・キャニオン・ロードを走ったエンジンの熱のしわざである。内装は一切無く、あるのはタコメーターと油圧ゲージだけでそれも針金でカウルからぶら下げられているのだった。

 だが外観こそポンコツそのものだったがボディの中は全くの別物だった。1940年式フォードの油圧ブレーキが取り付けられており、エンジンはB型フォードのもので4ポートのライレーヘッド、ウィンフィールドのカムシャフト、マロリーのカムシャフト、ストロンバーグのモデル48キャブレター4連装の長大なインテークマニフォールドがついていた。エンジンはもともとマル・オード(Mal Ord)によってスプリントレース用に組み立てられたもので、レイはそれを「ベル・オートパーツ」(Bell Auto Parts)から買ってきてキャブ4連装のマニフォールドを自分で造ったのである。排気管はひとつは1番と4番、もうひとつは2番と3番をまとめて都合2本出しとしていた。

 重要な事はレイのライレー・ヘッドのフォードは一度も負けた事がないという事である。良く走る4気筒車を見た事が無い者は本当の加速というものを見た事がないと言っていい(これは1940年または1950年代の話であり1990年代の話では無い)。この時点ではシャルボノーはまだクラブに所属していなかったのでドライレイクを走ってはいなかった。

 レイとチャーリーがバーガーとフィッシュフライを食べていると綺麗な32年式ロードスターが彼らの隣の駐車スペースにバックで入って来た。その車は派手では無かったがカチッとした仕上がりでいい音をさせていて目的のはっきりとした車という印象だった。多分これは本物だなという雰囲気が漂っていた。そのデュース(Deuce/この32年フォードの事)に乗った二人の男がコーヒーを飲み終えたのはレイとチャールズがハンバーガーを食べ終えたのとほぼ同時であった。デュースの助手席の男は身を乗り出してきてからかうような調子で「やるかい?」と言った。

 レイにはこの言葉だけで充分だった。レイはライトをつけてウェイトレスにトレイを取りに来るように促してから言った。「よーし、やってやろうじゃないか」。

 余談になるが当時、ドライブインに集まるホットロッドファンやホットロダー気取りの者たちはちょっとした「ワザ」を持っていた。これらの者たちの多くはストックのままかストックに毛の生えた程度の車に乗っていたのだがそれがバレるのは嫌だったのである。だからドライブインの駐車場に入ったらハンドブレーキを引っ張ってクラッチを踏んでギアをセカンドに入れる。それからキーをオフにするタイミングに合わせてクラッチをポンと離すのである。こうする事によってエンジンはすぐに停止する。レースカーは出力を絞り出すために圧縮比が高く、レスポンスを良くする為にフライホイールが軽量化してあるという事は誰もが知っていた。だからもしその車のエンジンがすぐ止まると「おっ、こりゃあレーサーに違いない」と思ってもらえたのである。

(訳者余談)
セコい、これは余りにもセコい方法です。日本でもその昔「陸サーファー」(おかさーふぁー)と言ってサーフィンなどやりもしないのにナンパの時に有利だというだけの理由でわざわざ車の屋根にサーフボードを載せてギャルを物色して都心部を流す男たちがいましたが(どうかするとサーフボードはボルトで止めてあったりしたらしい。これでは絶対サーフィンなど出来ません)、それに劣らずセコい手法と言えましょう。アメリカ人もやるもんです。


 勿論レイはそのような手法に頼る必要は無かった。彼のエンジンは約10:1の圧縮比を持っていてフライホイールはようやくスターターのピニオンがリングギアに引っ掛かる程度の厚みしか無かったからである。ウェイトレスがトレイを持って行くと同時にレイはスターターボタンを押し、そしてエンジンは回り出した。レイはスロットルをあおり、そして2本の排気管から発せられる轟音はドライブインにいる全ての人々を振り向かせた。隣のデュースに乗る二人は少しばかり目をぱちくりさせたが、いずれにしても「これは本当のレースになるな」と覚悟を決めたようだった。

 レースはそこから20分ほど離れたロサンゼルス東のワシントン・ブールバードでやろうということになった。レースはスロー・ローリング・スタートで行こうと言う事になり、準備は整った。驚いた事にいつもと違ってくっついて来た見物人はそんなに多くなかった。

 そしてレースが始まった。1速の間はレイが車一台分リードしていた。が、セカンド・ギアに入るとV8のデュースがレイを捕まえ、二台は時速100マイル(160キロ)でサイド・バイ・サイドでゴール地点を駆け抜けた。ドライバーは二人とも全くもって困惑していた。というのもV8のドライバーもまたレースに負けた事がなかったからである。全く同等の性能と思われる二台の負け知らずの車がそこにいた。二台はUターンして復路のレースが始まった。そしてレイはセカンド・ギアへのシフトをミスしたためレースに負けただけでなく、トランスミッションも半分ダメにしてしまったのである。

 レイとチャーリーは信号待ちや渋滞を避けるために裏道を通って1速が壊れたままヨタヨタと家のあるバーバンクまで帰った。当時はフリーウェイなどは無かったので、それは長くて骨の折れる家路だった。

 2〜3日後、レイとチャーリーは再びドライブ・イン「ラリー・アンド・カール」にいた。今回はレイの車は無かったが、そこで偶然この間のデュースを見つけた。お互いに自己紹介をし合ったところ、このデュースに乗る好敵手が実はドライレイクのレースでは名の知られた人物である事が判った。彼の名前はランディ・シン(Randy Shinn)。シンはSCTAのロード・ランナーズ・クラブ(Road Runners Club)のメンバーで1946年のSCTAチャンピオンシップのナンバー1、1947年のナンバー2という戦績を持っていたのである。

 ランディはレイとチャーリーにロード・ランナーズ・クラブに入る気は無いかと尋ねた。チャーリーもウィンフィールドのフラットヘッドつきB型フォードエンジンを搭載した29ロードスターを持っており、ちょうど二人ともどこかにいいクラブはないかと探していたところだった。これがもとでチャーリーの弟のビルとルート・エルドリッジもまたロード・ランナーズ・クラブに入る事になったのである。




●1950年の青春 -ディーン・バチェラーの場合-

 1950年5月7日。そのエル・ミラージュ・ドライレイクでの日曜日の午後、私が最後に覚えているのは「南カ・ストリームライナー」(So-Cal streamliner)に乗って復路の記録達成に向けてスタートしたという事である。我々(アレックス・ジィディアス:Alex Xydiasと私ディーン・バチェラー:Dean Batchelor)はフォードV8を走らせており、私はその前日に時速152.28マイル(約244キロ)の記録を達成していたのである。

 私はこの復路においてどれくらいの速さで走っていたのかはわからないが、その時点でのレコードは私が前年の7月に記録した時速138.74マイル(222キロ)だから、目標は時速140マイルだった。我々は各レイクにおけるレースイベントにおいて記録を2マイルずつ上げてゆけばシーズン・チャンピオンを獲得するだけの充分なポイントが稼げたのである。往路において時速152マイルを記録していた私は残りの必要なポイントを獲得するのは簡単な事だと考えていた。

 不幸な事に、我々が復路での記録達成に向けてコースの東端に車を向けてスタートしようとした時に横風が吹いてきた。その風は私の進行方向の左45°くらいから吹いていた。ストリームライナーは軽く(ドライバーの乗った状態で約590キログラム)、またその重量の65%がリアホイール側にあるため横風には弱かった。

 押しがけはうまく行った(訳者註:この頃のホットロッドは別のトラックなんかに押してもらってエンジンをかけていたようです。軽量化のためスターターがなかったんでしょうか?全部が全部そうだったかどうかは不明ですが写真を見る限りストリームライナーは普通セルモーターは装備してない模様)。フォードエンジンは快調だった。しかし私は何かがおかしいという悪い予感がした。それが何であるかは判らなかったが気になったのでこの走行をやめようかとも思った。私は自分の悪い予感を信じるべきだったのだ。

↑エル・ミラージュでコントロールを失って湖面(地面)を転がって行くディーン・バチェラーと彼のストリーム・ライナー。この時点で既にディーンは頭を強打して気を失っていた。本編にもある通り事故そのものは全く記憶にないらしい。この写真も本書に載っているものです。
 私は斜め45°方向からの風に対してステアリングをやや左に切って修正していた。その時突然風がやんで車が左に突っ込む形になった。大急ぎでステアリングを右に修正したのだが時すでに遅く、車は完全に横向きとなり、レイク表面を横切る方向に滑り出した。そして計測区間のまん中あたりで右ホイールが地面に食い込む形になった時、車は完全にもんどりうって転がり出した。

 私が今こうして文章を書いていられるのはそのとき車がたまたまホイール側から着地したからである。我々はシートベルトも消火器も用意していたがそれは普通の安全装置の類いであってロールバーは装備していなかった。もし車がホイール側ではなく反対側から着地していたら私の頭は肩のあたりまで削れてしまっていただろう。

 その上、我々はそのストリームライナーのベリーパン(訳者註:原文 "bellypan"、車体下面の整流板の事。通常はアルミまたは鉄の板金細工)をフロアボード代わりに使っていて、まともなフロアパンは無かった。車がひっくり返った時、リベットで止めてあったベリーパンはあっさりとはがれてフリスビーをみたいに飛んで行った。そのフロアボード代わりのベリーパンを失ったことによって車が着地した時、隙間から足が飛び出して両足とも失っていた可能性もあった。

 加えて、我々の車にはトローリング・ボート用船外機エンジンのスロットルコントロールシステムを採用していた。これはスロットルをひねって開く方式なのだが、スロットルはそのままの位置に止まっていて戻らないようになっているのである。だから車が宙に浮いてホイールが地面を離れた時、エンジン回転数は6200rpmから8000rpm以上にまでなり、そしてエンジン全開のまま着地したかと思うと今度はフィニッシュラインの観客達の方向を目指して走り出したのである。

 この時点でいくつかの事が同時に起こったが私はステアリング・ホイールに頭を強打して右目の上の額を深く切って気を失ってしまっていたのでそれをコントロールする事は出来なかった。

 地面に当たった衝撃でフロントエンジンマウントが破壊され、エンジンが2インチほど下がり、コング(Kong)のイグニッションケーブルが切断された。この時点でエンジンがストップしてようやく車が止まったのである。

↑左の車がエル・ミラージュから聖ベルナルディン病院までの57マイルを45分で走り切る鬼、ジャック・パーディの救急車。そんな救急車に乗せられたんでは治るケガも治らんくなるのではないか。ちなみに右のタワー状のものはSCTA所有のタイム計測塔でこの写真はちょうどオットー・クロッカーその人が計時しているところだという。このタワーはタイヤが2個ついたトレーラーフレームになっていてドライレイクからドライレイクへとイベントのあるごとにコロコロ引っ張って走ったんですと。年に一度は何とボンネビルまで1000キロ弱の道のりをコロコロ引っ張って行ったのだという。
↑これは本編と全く関係ないが面白いので本書より借用しました。人間が運転席に後ろ向きに座っているように見えるが、実はこの車は後ろ向きに走るのだという。写真から判断するにどうも何らかの工夫でタイヤを逆回転させて反対向きに走るようにしたらしい。元々の前輪が後輪となってステアリングしている模様。何でそんな事をしたかと言うと「ファイアーウォールから後ろはボディ形状をいじってはいけない」というレギュレーションの間隙をついた策だったそうで、ディーン・バチェラーがマヌエルという友人に「T型ロードスターのリアはスムーズな形なので後ろ向きに走った方が空気抵抗が少なくてスピードが出るに違いない。ファイアーウォールから後ろをいじる訳じゃないからレギュレーション違反じゃない、ただ後ろ向きに走るというだけだ」とそそのかして作らせたとのことです。それでも時速148マイル(237キロ)出したと言う。こうした試みを「独創的」と呼ぶか「おめでたい」と呼ぶかは判断に迷うところ。ディーンいわく「この車が後ろ向きにタイム計測区間を走り抜ける間、計測員たちは何だか心地悪そうにしていた」とのこと。そりゃそうだろう。
 次に私が覚えているのはサン・ベルナルディーノ(San Bernardino)に向かってケイジャン・パス(Cajon Pass)を全開で走るジャック・パーディ(Jack Purdy)の救急車の中で意識を取り戻した時の事である。パーディはエル・ミラージュからサン・ベルナルディーノの聖ベルナルディン病院(St. Bernadine's Hospital)まで45分で怪我人を運んでみせるとSCTAに請け合っていた。私の記憶ではこの道のりは約57マイル(約91キロメートル)あり、おまけにレイクから舗装路に出るまでの最初の数マイルはガタガタのダート道だった。病院までの道のりの大半、私が気を失っていたのは全く幸いだったと思う。

 最初に頭に浮かんだのは「ここはどこだ?」という事で、次に「オレはここで何をやっているんだ?」という事だった。救急隊員は「君は事故に遭ったんだよ。だから君を病院に連れて行くところなんだよ」と説明してくれた。その時私が思ったのは「クソッタレ、車が壊れちまった。次のレースに出れないじゃないか」という事だった。このようなシチュエーションで人が正気を取り戻すのに至る過程は奇妙なものである。

 私はまず自分の目の異常について思いをいたすべきだったのに何故か私はどうやって車を再び走らせるかについて心配していたのである(私の視覚については大丈夫だった。だがその時点では私の視覚がどの程度回復するかについては深刻な疑問があったのである)。

 結局、私は再びその車に乗る事はなかった。アレックスにはその車に乗りたがっているビル・デイリー(Bill Dailey)という友人がおり、私にもその車に乗りたいというレイ・シャルボノー(Ray Charbonneau)という友人がいた。我々は彼らがそのストリームライナーに乗れるようにしたが二人ともその二年後に結成された「200マイル・クラブ」(200MPH Club)には入れなかった。二人ともそのストリームライナーで何回か時速200マイル(時速約320キロ)以上のスピードを達成していたが200マイル・クラブの入会資格である往復ともに200マイルを達成するという条件を満たせなかったのである。

 その事故の数週間後、我々はアレックスのスピードショップでそのストリームライナーをばらばらにした。フロントのスピンドルは両方とも破壊されており、フロントアクスルは右のキングピンのところから内側に18インチ(約45センチ)にわたって亀裂が生じていた。リアアクスルはアクスルキーが壊れる前に360°ネジまがっていた。これらの部品は全て交換され、ホイールハブのベアリングレースもデフキャリア、デフピニオンのベアリングも全て元通りに取り付けられた。T型フォード用のフレームも傷一つない状態に仕上げられ、元々のボディを製作したバーバンクのバレー・カスタム(Valley Custom in Burbank)によってボディも修復された。

 これらの事を振り返るに、私という人間はある意味では相当に賢明であったと同時に一方で何と言う間抜けだったのだろうかと訝しく思わざるを得ない。賢明だった点は同じクラスの他のどの車よりも時速30マイル(約48キロ)ほど速い車を造る事において私は大いに能力を発揮したという事である(そしてそれはドライレイク、ボンネビルの他の大抵の車より速かった。つまりその時点でアメリカ最速の車という事になる)。間抜けだった点はその車の安全に寄与するものを何ら装備しなかった事である。


12 June 2001